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あら浪 第四十三回 酒でも飲まう

不木生

「どうしたのだ、気分が悪いか?」と更に問はざるを得なかつた。
 此の時芳江は既に起ち上つて居た。
「寝て居たらいゝ!」
「いえ、少し頭が重かつたばかりですの!」
 常ならば「貴方が御出でにならなかつたからですわ」と附加へたであらうに、今は左様な元気は爪の垢程も持たぬ。
 芳江の寝衣(ねまき)を着替へるのを勝清は黙つて眺めて居た。
 芳江を思ひ切つたとは言ふものゝ、勝清が態々(わざわざ)此処に出懸けて来たのは、芳江に対する幾分の執着と、一つは持つて生れた性質の然らしむる所であつた。勝清は飽く迄芳江の言(ことば)を信じ、芳江の人となりを思つて今更黙つて見限つてしまふ事はどうしても出来なかつた。畢竟(つまり)芳江が気の毒でならないのである。
 元来同情を表した余り、芳江を救い、其(それ)が図らずも盲目(めくら)の恋愛と変り、今この際覚醒して縁を切るに当つて、知らぬ顔して過す事が、何としても果し遂げられなかつたのである。昨夜(ゆふべ)から今日にかけて、芳江の許へ行かうか行くまいかの問題が提げられた。雪子に対して言へば、芳江を訪へないが道理、なれども芳江に対しての今迄の行為は或(あるひ)は彼女を弄んだと言ひ得る。純潔無垢な処女(をとめ)を疵物にしたといふのが一つ(、)(※1)いざ別れるとなつては、飴を両手で捩断(ちぎ)るの心地、即ち最後の一瞥といふのが一つ、この二つが勢力を占めて、遂に芳江を訪ねようと解決がついて夕方遣つて来たのである。但し今夜限り、愈(いよいよ)別れて了(しま)はうとの念は十分彼の頭脳(あたま)に胚胎して居た。
 二人は無言の儘相対した。芳江は憶して一言(ごん)も発せなかつた。実を言ふと勝清がこゝへ来る前に、芳江の面前で、何と言訳をしようかと苦悶した。常乍らの彼女の言(ことば)に捲かれてしまつて、嘸かし困難であるぞと懸念した。けれども其んな困難位犠牲にしても、なほ一度芳江に逢たいの心地は格別であつた(。)(※2)ところが来て見れば思つたに反して芳江は気を塞いで居る。それ故に言ひ出すには好都合である、なれども病気の様子で顔色も悪い、して見ると縁を断(き)るなどとは言ひ出し難(にく)い、といつて他の話に紛らして笑談する元気は更に無い。
 芳江は伏目勝にして居たが、遽(には)かに思ひ附いた様に、
「貴方、夕飯はまだでしよう?」
「今日は食ひたくない」
「そう? 私も頂きたくないの!」
「御前寝て居た方がいゝだらう!!」
「いゝえ、別に」
 勝清は何だか変な気になつて、もう何事も忘れて了(しま)つた。
「顔色が悪い」
「そんなに悪いの?」
「うむ」
 芳江は何も言はずに俯した。それから無言で立つて無言で玻璃燈(らんぷ)に点じた(。)(※3)昨夜(ゆふべ)この螺子を持つた男がこの家に死骸となつて……芳江の手はわなゝゝ(※4)と顫へた。
 けれども勝清は如何(どう)あつてもこの時言つてしまはなくてはならぬと合点した。合点はしたものゝ、この塩梅では言ふに就て多大の努力が要ると感じた(。)(※5)若しこの際何物か身代りとなつて、自分の心情を述べてくれるものがあつたらと、頻りに思つた。
 不図いゝ思附(おもひつき)があつた。
「酒でも飲まうか」と芳江を眺めて、取りも直さず言ひ放つた。
 芳江はたゞ、命ぜらるゝ儘に其(その)準備をした。
 軈て彼等は相対座した。例(いつも)の様な元気は双方に失せて居た。何を思つたか芳江は、二三杯差さるゝ儘に呑み干した。

(※1)(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月16日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)