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あら浪 第四十二回 蟻の群集(むれ)

不木生

 太陽は高く昇つたが、芳江は依然(やつぱり)、床から離れなかつた。其処は遉(さす)がに一人身であつて毫頭気兼の必要が無いからである。といつて今の場合、彼女の心は蟻の群集(むれ)の様にうぢやゞゝゝ(※1)と入り乱れて、締(とま)る由縁(よすが)は更に無かつた。
 此の先、如何(どう)なる事であらうか、他人(ひと)を殺せば我が身も終(つ)ひに亡ぶべきは定則である。凡て定則に甘んじて支配さるゝならば人生何等の矛盾も、逆縁も生ずる筈はないのであるが、其の定則が避けたい為に、飽く迄人は常に努力して身の保全を計らうと心懸けるのである。盗跖(とうせき)も死を欲せず、五右衛門も生命を惜んだ。毒蛇の刺(■)(※2)も一面己が防禦具である。即ち彼女も自らを欺き、他人をも騙(たばか)つて、以て自己の保持を期し、軈(やが)て五体の安全に資し、虚栄の毒刺(■)(※3)を以て、而して其(その)防禦具たらしめむ為の策を講じて来たのであつた。
 然れども毒に対しては中和剤がある(。)(※4)時間といひ、天網といひ、物質的に其(その)毒を中和し得るものである。彼女自らの毒に対(むか)つても既に其(その)中和剤が作用し始めたのである。凡て化学的反応は触媒によりて其(その)速度を早むるものであるが、昨夜(ゆふべ)の出来事は正に其(その)触媒に外ならなかつた。此の大規模の化学反応に伴なふ諸々(もろもろ)の現象は、苦痛といふ音響、煩悶といふ熱を始め、あらゆる悲観的絶望的の情緒は、石油井(いど)より湧き出づる様であつて、芳江の小さき胸は、実に此の一大反応の起つて居る実験室に外ならなかつた。
 然らば何故(なぜ)に彼女は自らを欺き、他人をも騙(たばか)り、而も厭な定則に迫らるゝ様な身となつたか、恐らくは彼女は此の際、語り、訴へて、其(その)苦痛の幾分をも減じたかつたであらう。然れども彼女は其の人と時機とを得ないのである。ある時間まで、たゞ自分で、自分に訴へて居なければならぬ。其処が彼女に取つては幾重にも辛い。
 彼女は蒲団に包抱(くるま)つて考へた。深く思ひ詰むれば詰むる程、気が変になつて、ふらゝゝ(※5)と心が狂つた様にも感じた。もうどうなつても管(かま)はぬ、なり放題だと彼女は蒲団の上に起き直つた。
 起直つては見たが怖ろしさが嘔吐の様に催ほして来る……あの暗い暗い牢屋の人となつて気味の悪い空気を呼吸し、果ては断頭台………
 身振ひをして、顔を擡(もた)げると置時計は十時半を指して居る。今にも誰か来て、後手に搦めて、そして白昼の大道(だいどう)を………あゝ死なう、もう駄目だ、死ぬならば幸ひ此所(ここ)に一挺の拳銃(ぴすとる)がある。ズドンと一発、煙と共に身も消えて行く。すると冥途は自分独り、六さんとの約束に背く、逃出さう、両個(ふたつ)の死骸!
 今は真昼(まつひる)だ、何故あの時六さんに附いて行かなかつただらう。否々(いやいや)、六さんの言葉が道理だ、今頃は何処を行くであらうか。恙無く約束の所へ着いて呉れゝばよいが、逃げ出すは今夜だ、けれども……けれども来られたら何と為よう。昨夜(ゆふべ)は訪ねては見えなかつたが、今夜は屹度……といつて今から出懸ける訳にも……だつて六さんこそ二世を契つた夫、自分の命に替へても恋しいあの人。
「六さん、屹度後から直ぐ行くよ!」
 かうはいつたが立ち上る元気は無かつた。今宵の運命が瞭然(ありあり)と眼の前に霏霏(ちら)つく様でもある。脳天を鉄砧(かなしき)の上で敲き押へられた様な気がしたかと思ふと、芳江は堪らなくなつて、又もや蒲団を引き被つた。夢ともなく現ともなく、寝るともなしに数時間は経過した。
 がらゝゝ(※6)と表格子が(※7)いて、次いで重くるしい跫音が階段に響いた。むつくりと起き直ればもう薄暗い。よく寝たと思う隙(ひま)もなく、
「どうしたのだ?」と力ない声ながら、驚いた調子でいつた。
 それは勝清であつた。

(※1)原文圏点。原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)(※3)読み仮名判読不能。
(※4)原文句読点なし。
(※5)(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月15日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)