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あら浪 第四十一回 拳銃(ぴすとる)

不木生

 夜(よ)は刻一刻と進む、男は内心、気ならぬので、言(ことば)を改めた。
「花公! お前一緒に死んで呉れるだらうな!」
「云ふまでもないわ!」
「逃げられるだけ逃げるが日本では死にたくはない!」
「そうだわ」芳江の心は狂つた。もう何事も落着いて考へる事が出来なくなつた。
 男は急に芳江の耳に口を寄せた。其れから二人で永い間、互(たがひ)に何事か、囁き合つた。
 それから芳江は隣の間へ行つて、軈(やが)て大なる行李を持ち出して来た。
 行李を眺めて二人は思はず顔見合せた。
 行李! かの須磨の屍体事件も、この様な大なる行李であつた。斯様な事にも何かの因縁があるのだと二人は果して考へ得たであらうか。
 男は両個(ふたつ)の屍体を苦もなく其(その)行李に詰めて、そして軽く蓋をした。男の手は少しも顫へて居なかつた。夫(それ)から元あつた場所に運ばれた。
 男は身拵らへをした。そして時計を出して見た。
「や、三時半だ!」
「もう、そんなになつて?」
「ではもう出懸けよう」
「そう」といつて芳江は小さい帛紗包みを取り出して、そして男の手に渡した。男は黙つて受取つて、直様(すぐさま)懐中した。
「兎に角、もう行(ゆ)かう!」出懸けようとする男の袖を芳江は確(しか)と握つた。
 男も振り返つた。芳江の視線と合つた時、男は寂しく笑むだ。芳江の声は濁つた。
「私、悲しくなつたわ!」
 男は何事も答へぬ。
「何だかもうこれで逢へぬ様な気がするわ」
「気を小さくしてはいかぬ! 早く出懸けて来るがよい!」
「何だか、悲しくて」急に俯向いて、袖を攫(つか)むだ手を両眼に当てた。
「死ぬにしても二人は一緒に死ぬのぢやないか?」かういつたものゝ、これ限り逢はれない様な気がしたと見えて男の足は急に力が抜け、思はず復(ま)た其処に坐つた。
「では此(これ)から一緒に行くか?」といつたが又思ひ直して、「やはりそれは悪い(。)(※1)却つて寿命を縮める様なものだ、先へ行つて待つて居るから、用心して来るがよい!」
 男は再び立ち上つた。芳江は力なく仰ぎ乍ら、渋々と立つた。
「屹度、後から行くわ、出来るだけ急いで行くわ!」
「うむ」
 男は二三歩進む。芳江も従いて行く。
「もういゝからお前は早く寝よ!」と振向いて男は制した、芳江は其儘、畳から生へた様に突立つた。
 男の姿はもう見えなくなつた。芳江は■然(※2)(ぼうぜん)として寝床の上に来た。二人の死体(しがい)が此家(このや)に在る。顔を蔽(おほ)つて褥(しとね)の上に俯した。暫らく何事をか考へた。
 夜はほのゞゝ(※3)と明けかけた。
 不図顔を挙げるとチカリと眼に入るものがある。其(それ)は男が置忘れた拳銃(ピストル)であつた。

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文一文字判読不能。(立心偏+「曲」「ワ」「目」?)
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月14日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)