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あら浪 第四十回 六さん

不木生

 芳江は驚いて眼を見張つた。
「オイ花公! 可愛想に!」
 猿轡を外(はづ)いて、帯を解いて遣つた。
「まあ六さん! よく来て……如何(どう)して来たの?」
 と蒲団の上に芳江の傍に坐つた。
 常公と政公とは最早虫の息もない。二人は死んでしまつたのである、腥(ちなまぐさ)い血の香(にほひ)
「まあ六さん、如何(どう)したらよからう!」
「えろ、気が小(ちいさ)いな!?」
「でも困るわ!」
「かまふものか、知れやしない!」
「だつて………」
「まあ心配するな!」
 けれども、こう言つた男の顔には深い深い悲観の様子が見えた。
「こうなつちやもう無茶だ!」と急に男は投げ出す様にいつた。芳江は何とも言ひ得なかつた。胸には言ひ得ない程多くの葛藤が生じた。男は気を取り直して、
「然し今迄は上手に遣つて来たな!」
「……………」
「まあ、そう塞がぬで居て呉れ! よう花公! 何とか考(かんがへ)が附かう!」
「これではもう駄目だわ!」
「うむ」と考へて、「もう世間では余程騒がしくなつて来た。実はもう一度朝鮮へ行かうと思ふのぢや、日本に居ては、もう迚も助からぬ。静岡に居ても堪らなくなつた。御前を馬鹿に捜索につとめて居る様だから(※1)御前の身の上が心配になつて遣つて来た。今日の夕方東京へ着いたが、知れ難(にく)いけれど月夜だから遣つて来たよ、ところで来て見ると戸が(※2)いて居る。不思議だと思つて聞いて居ると、あの憎い常の野郎だ。癪に障る事を抜かしたで遂、殺してやる氣になつた!」
「本当に如何(どう)なる事かと気が気でなかつたわ!」
「いゝ所へ来た、うつかりしたら如何(どん)な事を遣るやら知れぬ所だつた、憐れな奴め! これでも生きて居られちや、此方(こつち)の損だ、いい口留をした。」
「私の事をそう世間では騒いで居るの?」と芳江は心配相に見えた。
「長く居たら見附かる!」
「そう」と力ない返事。
「お前さんには本当に苦労を掛けたわね!」と何思つたか、藪から棒に言ひ出した。
「今更そんな事を言はなくつたつてよいよ」
「私、本当に済まなかつたわ!」と悄気込んだ、
「まあいゝよ!」
「此の先もう迚も生きて居れぬわ!」
「死ぬのは覚悟だよ!」
 芳江は別に驚きもせぬ。
「二人で死ぬんだわ!」
「そうよ」と軽く言つて、「どうせ捕まつたら殺されるには定(きま)つてる、遣りたい放題した挙句に、二人で死なうぢやないか?」
「ホヽえらい元気だわ!」といつたが、笑(わらひ)の下には一種云ふべからざる色が見えた。
「死ぬなら、朝鮮で死なう!」
「もう一遍、朝鮮(あちら)へ行きたいわ!」
「行こうよ」とかういつた。

(※1)(※2)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月13日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2006年3月8日 最終更新:2007年2月26日)