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あら浪 第三十八回 不安の念

不木生

「如何(どう)して? 御母(おつか)さん! 寒いぢやありませぬか?」と勝清は先づ口を切る。
 廣子は寝着の儘である。闇の中にも蹌踉(よろめ)く姿が見られた。病気を冒して出て来たのである。雪子は身を正しくした。
「勝清、御前よく心を取り直して呉れた!」
 勝清は唇に釘を打たれた様に、礑(はた)と詰つた。雪子は涙を拭つて、
「御母(おつかあ)様! まあ毒で御座います! 御身体が……」
 廣子は雪子の言(ことば)を打消す様に、勝清に向つて、
「雪さの此れ迄の心配といふは……」
「御母(おつかあ)さん! 全く僕が悪かつたです!」「私は今、外で聞いて居たのよ、雪さ! 勝清が立ち直つたのも、皆(みん)な御前の御蔭だよ!」
 雪子は又も涙ぐむ。
「いえ、そうではありませぬ。」
「御母(おつかあ)さん! 今日から生れ変つたです(。)(※1)御母(おつか)さんにも心配を懸けて済まなかつたです(。)(※2)私はもうあの女を見限りました(。)(※3)断じて棄てました。今からでも行つて立派に別れて来ます! 御母(おつか)さん! 病気の為に悪いから早く寝(やす)んで下さい!」
「御母(おつか)様、冷えるといけませぬ!」
「いや、私は今、どれ程楽になつたやら知れぬ。御前ももう心を入れ替るがよい」かういつて二つ三つ咳いた。
「御母(おつか)さん! もう寝床に入つて下さい!」
 此の時、雪子は起つて机の上の洋燈(ランプ)に点じた、同時に室はうらゝかな光を浴びた。雪子は眩し相に涙の眼(まなこ)をしばたゝいた。美はしい頬の色が、勝清の眼(まなこ)に深く刻まれた。
 空には月が薄曇つて、室の中はキラキラと輝いた。
 暫し言葉が途絶える。
 三人は円く徐かに座つた。廣子の僂(やつ)れた顔が際立つて青白い。病は依然として変化しない。自分の不謹慎が其(その)一大原因であると考へて、勝清は恐ろしい迄、身の行状が恥かしくなつた。母の衰弱した姿を見れば片時も早う全快(なほ)つて欲しい。そして楽しい太つた顔が見せて貰ひたい。かう思ふと得堪えぬ様になつて来る。
「御母(おつかあ)さん、いかぬ! 寝床へ行きませう!」かういつて、雪子も共に立ち上つた。
「寝てばかり居るのも退屈だから、もう少し此所で話さう、今夜は大分楽になつた」
 二人も復(ま)た座つた。
「御母(おつかあ)さん、迷ふといふものは恐ろしいものです、雪さんが人並外れて親切にして呉れるも、全く知(しら)なかつたです。雪さんがよくも今迄辛抱して此家(ここ)に居てくれたのが不思議でなら(※4)です」
 妻は持つべきものである。尊いものである。今は彼の念頭には、芳江の事は露もないのである。芳江の情は派手であつて虚である。雪子の愛は老■(じみ)(※5)であつて実である。かう判明(わか)つて見ると、覚めたる今の彼は急に芳江が忌々しくなつた。雪子が無闇に可愛くなつた。而も今迄其(その)(にく)むべきを以て、愛すべきを妨げて居たと悟つたら、芳江の艶深い言葉が、牡丹の香を嗅ぐ様に思はれた。遠ざけるべきは此の時である。固(もと)より芳江とは簡単に馴染んだ。然らば同じく簡単に別離(わか)れる事が出来よう、と考へると彼は雪子の為、母の為、只(た)つた今芳江と縁を断(き)つて、そして後めたい心を無くしたい。で心は頻りに其の方に駆け寄つて来た。
「御母(おつか)さん! 僕は今から行つて、女と別れて来ます、芳江と」かういつて俄に立ち上つた。
「御前、もう夜も遅いぢやないか?」廣子は驚いて、窪んだ眼(まなこ)を太く開いた。
「いえ! 善は急げです!」
 雪子も意外であつた。何やら不安の念が勃々と胸に差し迫つた。
「所夫(あなた)! 明日にして下さい!」
「一体、其(その)芳江といふは誰だよ!!」
 勝清の胸はぎくりとした。此の時彼は一通り話さうと決心した。

(※1)(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。「ぬ」の誤植か。
(※5)原文一文字不明瞭。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月11日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2006年3月4日 最終更新:2007年2月26日)