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あら浪 第三十七回 迷つて居た

不木生

 二人は点燈する遑(いとま)がなかつた。
 室(へや)は暗い、月は庭石や苔の上に、心尽しの光を砕いて居た。
「雪さん! 堪忍して呉れ!」勝清は俯した、雪子は忙はしく眼を拭ふ。
「僕は迷つて居た。雪さん僕は深く迷つたのだ、全く悪い夢を見て居たのだ、雪さん其(その)夢は今覚めた!」
 仮(よ)しんば夢であらうが、雪子が今迄の苦悶は如何(どう)して夢として見逃す事が出来よう(。)(※1)自分は悪魔よりも尚、浅猿(あさま)しい心であつた。
「済まなかつた、雪さん! 僕は悔悟した。今迄善くも辛抱して居て呉れた。それに自分の眼が醒めなかつたと言ふのは、雪さん僕の心は芥よりも役立たなかつた!
「僅か一婦女子の為に僕は最愛の妻を忘れたんだ、丸で鳥や魚にも劣り果てた根性であつた!
「それをも厭はず雪さんは僕を回護(かば)つて呉れた、雪さん僕は何と言つて弁解(いひわけ)してよいかわからぬ!」
 勝清の眼にも涙は浮ぶ、雪子は頻りに啜り泣く。
「女の雪さんが、これ程確乎(しつかり)して居るのに僕は男であり乍ら何故こんな腐つた心になつたであらう。雪さん、善くも我慢をして僕を良人だと思つて居て呉れた! 許して呉れ! この通り謝る(。)(※2)今からはやはり以前の僕だ、雪さん僕は生れ変つた。今迄の事は流してしまつて御前は改めて、僕の妻となつて呉れ!」
 雪子は顔を得挙げず
「私は……貴方の妻で御座います!」かういつた語(ことば)は途切れて響いた。
「浅墓(あさはか)な女の心に迷つて、得難い妻を忘れる! 雪さんこれ程の馬鹿を、二世を契る夫に持つ心は嘸悔しいであらう。けれど今からは人間らしい男となつた。雪さんこの心を知つてくれ!」
 今は勝清の心中、雪子を除いて外はない。
 雪子は声を挙げて泣く。
「今迄は嘸、苦しかつたであらう。悲しかつたであらう。憎く思つたであらう。僕はこれからどんな思ひをしても雪さんに報いる。自分の身を砕いても報ぜなくちや置かぬ……」
「いえ、いえ、いえ……」絶えゞゝ(※3)に洩れて来る。
「御母(おかあ)さんの介抱も、全く雪さん一人に委せてしまつた。雪さんが無いなら御母様(おかあさん)の病気は重(おも)つてしまふのだ、雪さんよくも今日迄耐(こら)えて遣つて来てくれた!」
 闇(くら)い中にも雪子の姿は神の様に崇高(けだか)く見えた。自分の傍に、この人ある事が何故(なにゆえ)に今迄、眼に附かなかつたであらう。か様な得難い女が現在我が眼の前に居て、而もどこまでも我が妻として仕へて居るではないか、自分の妻だ、女神の様な尊い女も自分の妻だ、自分は何たる幸福ぞ。
「雪さん、御前は僕の妻……」
 得たえずなつて勝清は、泣き崩れた雪子の傍に寄つて、そして右の手を雪子の肩に懸けた。
「僕は御前の……」かういつて勝清は俯したる雪子の耳元近く自分の顔を寄せた。
「は……い」と頭は軽く動いた。この黒い艶ある髪も我物である。雪子の膝の上に、彼は左の手で雪子の手を堅く握つた。雪子の熱き涙が、手の甲にはふり落ちた。
「雪さん、二人は夫婦だよ…………」
「二人は何時迄も死んでも夫婦だよ」
「忘れませぬ!」
 勝清も仰いで涙を拭つた、そして今一度両手を強く働かせた。夫婦の間に流れ合ふ血液は無限の暖かみを生み出した。
 この時、襖の(※4)く音がした、両人(ふたり)は僅かに手を放した。
「マア、暗い事!」といつて入つて来たのは母の廣子であつた。

(※1)(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。
(※4)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月10日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2006年3月1日 最終更新:2007年2月26日)