月は掾(ゑん)側を半分ばかり侵(ひた)して、青白い光も何となう暖かみを帯び、風は僅に塀を辷つて、夜はいと静かに春を刻むで行く。
書斎には燈火(ともしび)消えて、人無き様であるのに明け放つた障子の後ろに、相(あひ)対座したる両個(ふたつ)の人影がある。
勝清は深く首を垂れ、雪子は手巾(ハンカチ)を顔に押し当てゝ居る。
言葉はかき絶えて、庭にははらゝゝ(※1)と散る花が二片(ひら)三片(ひら)。
彼等は何を語つて居たのか、如何(いか)なる事が書斎の中に起つたか? 乞ふ暫らく語らしめよ。
愁ひ、悲しみ、悶え、苦しみ、泣いた雪子は、自分の身にも代る最も親しいお清に離れて、消えたくもある浮世の中を、腹に抱えた恩愛の塊に引かされ、一枚一枚、肉を削り取らるゝ苦しい思(おもひ)を為(し)乍らも、忍び耐(こら)えて果敢ない日数(ひかず)を、指には重ねたが、代つた召使は話し相手にもならず、夫の愛情は一秒毎に薄らいで行くのに、今は憂鬱遣る方なく、闇(くら)い山路(やまぢ)を奥深く迷ひ行く思ひの明暮(あけくれ)を、今は涙も涸れ果て、残るは身の憔悴と不運、疲れ果てたる屠所の羊よ、この身一つが邪魔になるぞと秘かに思ひ詰めたのである。
思ひ詰めては見たけれど、心の糾れは我髪と共々梳る暇もなく、乱れに乱れ果てゝ詮術(せんすべ)知らず、脳髄が燬け焦げるではあるまいかと疑つても、それでもなほ、勝清の傍は離れ得なかつたのである。
春が来て花は開けど、雪子の眉は永(とこし)へに開きそうもない、鳥は謳へど、彼女の声は嗄れてしまつた。雲は彼方此方(あちこち)と飛んでは居るが、雪子の心は五百重(いほへ)の黒雲(くろくも)に閉じ罩(こ)められて、飛ぶものはたゞ、胸に燃え残つた焔の雫であらう。
悲しみ余つて苦しみ、苦しみ余つて悶え、悶え余つて恨み、恨み余つて狂つても、復(ふたた)び平静に立ち返ると、追回の涙が滂沱として流れる。如何(どう)したらよからうかと、今は全く計るべき人を失つて、雪子は魂(こん)尽きて■(ぼう)(※2)然たるの外はなかつた。
夫は何故(なぜ)に知らぬ顔か、恋しき夫(つま)はどうして自分を棄てたか、蛻(もぬけ)の殻にも劣つた此の身ぞ、それにしても思ひ出さるゝは墓地で出逢つた叔父の言葉である。無形の念(おもひ)よりも有形の声である、と思つた彼女は遂に決心をした。今迄云ひ得なかつた事を、敢て言はうと思ひ定めたのである。
一たび決心した雪子は猶も躊躇したけれども再び気を鼓したのである。かくて此の日は近づいたのである。
今日は勝清は珍らしく家に居た、此の時此の機会(をり)! 雪子は遂に勝清に対座したのである。
勝清はいたく沈むだ、常になく悄(し)ほれた、雪子は此の間に心の声を搾り出した。世にも健気に言ひ出しつゝ、雪子は泣いて諫めたのである。
勝清の耳は雪子の鋭き音調に浴びた(。)(※3)心は雪子の暖かき誠真(まこと)に包まれた。肺肝からはふり出された声は、勝清の胸には、赤くなつた火箸で徐かに貫かれるよりも苦しかつた、一言一句は荊蕀(いばら)の刺(とげ)の様に感じた。
雪子は偕老(かいらう)を契つた妻、二人は同穴を約した妹脊(めをと)である。雪子は顔も美しければ心も澄んで居る。剰(あまつさ)へ雪子の腹には自分の胤が宿つて居る。自分の、其(その)自分の最も尊い細胞の一塊を雪子は秘し持つて居るではないか、徐かに考ふれば、今迄の自分の挙動は、あまりに酷であつた。雪子がこれ迄忍んで来たのは、我に還つた今から見れば、不思議とより外はない、それ程までに自分を思つて呉れた雪子を寂しい閨に泣かせて置いて、よくも自分は知らぬ顔がして居れたと思へば後悔の念が、秋の雲よりも一層油然(わくわく)と群がつて来る。見よ雪子は泣いて居る。而もこの鬼の様であつた自分の前に坐つて、なほも自分の事を思つて居て呉れるではないか?
かう考へた時、勝清は前後も、理非も忘れ果てた。
「悪かつた! 雪さん! 悪かつた!!!」声は幽(かすか)ながらも、心からであつた。
(※1)原文圏点。踊り字の部分は「く」。
(※2)一文字表記不能。立心偏+「夢」旧字体(「夕」→「目」)。
(※3)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月9日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2007年2月26日)