雪子は更に涙の内に言ひ続ける。
「お清! 御前も嫁入したらね、夫を大切にして上げてよ!」
この言葉の内に、如何(いか)程の、糾れた思(おもひ)が含まれて居るかは、お清の耳には十分呑み込めた、同時に同情の涙は激流よりも劇しく突きかける。
「お前には、こんな思(おもひ)はさせたくない。」
雪子はこういつて、得堪えずなつてお清の傍に摺り寄つた、お清は畳に顔を附けた。
「お前だけにはせめていつまでも楽しい日が送らせたい。」言は途切れゝゝゝ(※1)に「うちの御母様(おつかさん)の様な、親切な姑を持たせて、そして」といつたが胸は迫る。
お清はたゞ泣いた。これからは自分も夫を持たねばならぬ。雪子が眼の前の悲境を見もし聞(きき)もしたお清は、巳れの行末にも考へ及んで、小さき心は狂ひ乱るゝのである。
「けれど、嫁入をして何時迄も、楽しい心で居たいとは思へぬ! お清や、どこまでも辛抱してね」
雪子は俯したお清の肩に手を上げて「お前と一緒に居れるのも、今夜がお終ひだわ、今迄の事は少しも忘れぬ。たとひお前が嫁入してもお前は私の妹……私はお前の姉だよ!」
お清は頭を掉(ふ)つて泣く。
「お前の御蔭で、私は今迄、こうして暮して来られた。二人は前世で深い因縁があつたのだよ、身体は二つに離れて居ても、心は一つだよ、たとひ二人は別れたとて、いつも心は一つ所、死んだとて魂は一緒だわ」
「奥様、何と申し上げてよいやら、奥さま私は首が千切れても、御恩は何処までも……」
「嫁入つてからは今迄と違つてね、先方(むかう)の家(うち)の人になるのだから、その心積(つもり)でね、私を思つてくれた通りの心で、夫を私だと思つて仕へるのだよ、やはり一通りの苦労はあるのだから、女と生れた上は、苦労は覚悟でおいでよ」かういつた雪子の心が察せられて、お清は更に痛苦の情に堪えぬ。
雪子は更に涙を払つて、
「それどころか、人並はづれた苦労でも、一旦嫁つたからには、耐(こら)えに耐(こら)えて……」といつたが更に思ひ返して、
「それでも愚痴は出る。私は時々変な心を起す事もあつた、けれども思ひ返しては、思ひ返しては、その内に夫の気も治るであらうと胸が張り裂ける様でも、押へに押へて今日迄暮して来た(、)(※2)お清御前も知つてられる通りだわ」
お清は云ふべき言葉が無い、
「こんな事ぐらゐは沢山世の中にはあるわ、けれどお前を、この様な憂い目に逢はせたくはない」
雪子はお清の肩を徐(しず)かに撫でた。これから此の女も、苦労の仲間に入るのかと思ふと雪子は我を忘れて不憫に堪えぬ。
「お清や、御前には両親(ふたおや)があるわね、悲しい時に告げて行ける親があるわね(。)(※3)私には其(その)生(うみ)の親もないのだよ!」
「奥様、御察し申します」声は仄(かすか)に洩れて来る。
「兄さんもなし、妹の御前には別れる(、)(※4)丸で夢の様だわ、夢で居てくれたら幸福(しあはせ)だが、お清、私は夢でないのが悲しくて悲しくてならぬ……」我知らず雪子は眼を抑へる。お清はこの時、顔を挙げた。
「奥様、出来る事なら、私が代つて上げたう御座います、たとひ帰りましたとて、私の魂は屹度あなたの傍に附いて居ります、奥様、あなたに御別れする私は……」
「お清! 何時迄も二人は姉妹(けうだい)だよ!」
「有難(ありがたう)……」あとは欷歔の声ばかり。
涙は欄干として夜は極めて静(しづか)に、洋燈(らんぷ)は二人の影を寂し相に壁に投げた。
「寂しいわね!!」
「奥様!! ……」
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)(※3)(※4)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月5日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2006年2月22日 最終更新:2007年2月26日)