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あら浪 第三十二回 何をたよりに

不木生

「奥様、御察し申します!」
「お清、私は悲しい」
 ある夜、勝清の留守に、廣子の看護の閑暇(ひま)を、二人はしみゞゝ(※1)と語るのであつた。
「奥様があの様に御親切になさるのに旦那様は何故御気が附かぬのでせう」
「私は、捨てられたのだわ」
「御気の毒で御座います。」
 涙は、はらゝゝ(※2)と二人の眼から落ちる。
「それでも、旦那様が御悪いのでは御座いませぬ、皆なむかうの女が悪いので御座います。」
「私は、如何(どう)したらよいだらう?!」
「本当で御座います、私も悲しう御座います!」
 雪子は思ふ儘に咽ぶ、お清は更に語(ことば)を添へた。
「あの女があるばつかりに、奥様にこんな心配をさせますもの、私は本当に喰付いてやりたい程で御座います!」
「こんな悲しい思(おもひ)をして居る位なら、寧(いつ)そ私は……」と言ひ淀んで「それでもね、この通り、可愛い子もある事だし、御母様(おつかあさん)も御病気だし、お清、情ないわ!」
 お清も、顔を挙げ無くなつた。洋燈(らんぷ)の光は、寂しう二人を照らす。
「たゞの一日も胸の安まる日は無いわ! 毎夜恐ろしい夢ばかり見て、自分ながら、よく身体が続くかと不思議だわ!」
「奥様、何と申上げて良いやら、わかりませぬ」
 座は森として、啜泣(すすりなき)の声が、夜の空気に響く。
「そのうちには、奥様の胸が安まる時節が来るで御座いませう。奥様の真心は神様でも仏様でもよく知つて御出になります、奥様、何よりか御身体が大切で御座います。」
「お清、御前は今迄よく親切にして呉れたね、お清、その御前にまで別れなくてはならぬかと思ふと、私はこの先、どうして暮して行けるかと思ふわ」
 お清は此の時、声を挙げて泣いた。
 茲に暫く附け加へる必要がある。
 先日、お清の故郷(さと)から、この四月を限りに暇(いとま)を乞ひに来たのである。それといふのは、お清は実家の親戚に嫁する事に取り定められたのである。代者(かはり)が来る迄とてこゝ廿日ばかり、藤枝の家に仕へて居たが愈(いよいよ)明日が別れの日となつたのである。
 妹よりも尊い且つ親しいお清に、而もこの際離れねばならぬ雪子は、更に更に歎き惜んだのである。結婚は女子に取りての重要問題である。強ち引き留むる訳には行かぬと知つて、愈(いよいよ)袂を振り分つ雪子の感情、
「父(とつ)さんや母(かか)さんに安心させたいと思ひますから」と親子の情に燃えて、雪子の傍を去るお清の慕念、二人の思(おもひ)は四鳥の別れも及ぶ所ではなかつた。
 お清が孝心の深いだけ、それだけお清の心は美(うる)はしかつた、それだけ又雪子は愛した、従つてそれだけ、離れ難いのである。
 お清は漸く顔を挙げた。
「たとひ離れて居りましたとて、奥様の御恩は片時も忘れは致しませぬ。」
 常ならず雪子に愛せられて、山にも海にも更(か)へられぬ恩に浴びた。今、別るゝとなつては、前後も知らず乱れて来る。
「奥様私も寂しう御座います。心細う御座います、万劫も奥様の傍に置いて頂きたいので御座いますが、両親(ふたおや)も年を食べましたし、兄さんの為にも早う片付かねばなりませぬで。」
「お清、御前には兄さんがあるね!」雪子は不意に尋ねた。
 雪子が日頃、兄を慕つて居る事は、お清はよく知つて居た。雪子の心をも察して、たゞ無言に頭(かしら)を掉(ふ)つた。
「兄様(にいさん)の便りもわからぬし、御前には別れるし、この先、何をたより(※3)に生きて善いか、それを思ふと……」
「貴女の御兄様(おあにさま)も、屹度あなたの事を思つて御出になるでしよう」
 と後は涙ばかり。

(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文圏点。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月4日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2006年2月21日 最終更新:2007年2月26日)