二人は薄闇い阪(※1)を降りた。
鳥打帽を被つて筒袖を着た先刻(さつき)の男が、彼等の後ろ六間ばかり隔つて機敏に従(つ)いて行くのを二人は夢にも知らなかつた。
「草臥(くたび)れはしないか?」
「いえ」といつたが「何だか足が張つて来ましたの!」と附加へた。
「そうか、では俥に乗らう。」
芳江の今日に限つて元気が無いのを勝清は不思議に思つて居た。けれど気分が悪いのだらうと察した。実は思ふ存分手を取つて雑踏の中が歩ける事と内心嬉々の情を抱いて出た。ところが其計画は全然齟齬に帰した。なれども流石に家に帰つてからの楽快(たのしみ)も予想せられた。急いで帰りたい気にもなつた。
坂を降りてしまふと、車夫が居並んで居る。人の行き交ふ様が穀物を注ぎ出す様である。二人は行先を教へて別別に乗つた。
芳江を先にして勝清の車が将に動かうとした時。(※2)其傍に駆寄つた一人の女があつた。
「まあ」といつて見上げた時、勝清の眼に触れたであらう。此の時車夫は既に二三歩駆け出して居た。勝清は其儘見向もせずに車は闇の中に消えた。或は勝清は知らなかつたかも知れぬ、女はお清であつた。
筒袖の例の男は、其処に居た一人の車夫を片傍に呼んだ、そして今二人を載せた車夫の名を糾し乍ら、何事か委しく囁いて居る様子であつた。車夫が腰を低うして、黙頭(うなづ)く所が見えた、男は稲垣探偵であつた。
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廣子の病は依然として快癒(なほら)なかつたけれども重態ではない、また悪くなつて行く兆候も見られなかつた。
廣子は勝清の様子を取りわけ気に懸けて居た。けれども勝清が病床を訪ねて色々慰めて呉れたり、気の安まる様な話を聞かせて呉れたりする度毎に、折檻せようと思ふ心も何処へか逃げ隠れてしまふのが常であつた。
芳江に対する勝清の程度は益(ますます)大となつて行つた。同時に雪子に向つての愛情は、宛(あたか)も薄紙を一枚一枚剥ぐかの様な観があつた。雪子は悶えた、泣いた(、)(※3)然れども腹に宿つて居る子の為に、多大の慰藉を得た、裂ける胸をも縫ひ止められて居た。ところが或る時勝清に此の旨を伝へたら、勝清は「そうか」といつたきり、雪子に対する態度は以前(もと)の儘の流儀であつた。
雪子は悲んだ、悔いた、腹が噛み壊(やぶ)りたくもあつた。けれどもけれども雪子はなほも勝清を慕つた。義理でもなく、情気(なさけ)でもなく将(は)た又忠義でもなく雪子は心から勝清を離れる事が出来なかつた。此上は祈つた(、)(※4)腹の子と共に願掛けた。そして再び昔に戻る日を待つた、否々待つて居るよりも直接(ぢかづけ)夫の前で訴へよう、血の涙を流しても頼むで見ようと、一度は決心するものゝ、例へば魍魎の朝日に邂逅(でくは)した様に、面と向つては、たゞ言葉の足りないのと、上を下への胸の中とを恨むより外はなかつた。
姑の病気を看護し乍ら、雪子はたゞの一日も苦しからざる日はなかつた。姑に附き纏つての終日の疲労を立ち所に消す懐かしい言葉は、主なき閨に如何(どう)して得られようぞ。寒空の夜着を抱いて、寝返りのみの睡眠の為、めりめりと身体は削られて行く。これでは自らも篤い病気に罹りはすまいかと、案じるのも自分一人、なれども無理に気を引き延して、何時迄も柔しい姑の傍で無心に針を動かすのであつた。
やはり、今日も夫は居ない。お清も夕方所用あつて、使ひに出た。仄暗い洋燈(らんぷ)の下で、雪子はいかく(※5)物思ひに耽つて居た。お清の帰りが遅い、どうしたのだらう? 何故こんなに手間取るであらうか。あはれ! お清が立派な証拠を捉へて、更に悲しい報知を持ち帰る使者(つかひ)であらうとは、雪子は知つて知らぬものと謂つべきか。
(※1)(※2)原文ママ。
(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)原文圏点。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月1日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)