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あら浪 第二十七回 例外

不木生

 ヒユーゝゝゝ(※1)と烈しい風が街路(まち)を驀地(まつしぐら)に吠えて行く。遠き彼方の屋根の時計が、今し方午前一時を報じた。昼間は修羅と騒がしかつた都会も、遉に今は熟睡に陥つて、時々夢に襲はれた幼児(おさなご)の泣声と覚ゆるが、家の後から漏れてくる外には、ボソともせぬ闃(しづけ)さであつて風は底まで、大地を零度に冷さうと勤めて居る。
「誰だ!?」
 夜の警戒に余念ない一人の査公が、丁度今街路(まち)を通りかゝつた男に向つて発した声である、カチャリと剣(さーべる)の音がして査公は件の男に近寄つた。鳥打帽を着た筒袖の人。
「浅井君御苦労様!」と彼方(むかう)は先に口を切る(。)(※2)
「ヤア、稲垣君か?」と査公は近く進んで叫ぶ、天(そら)には星が瞬く様に光る。風の為に消え相にも見える。
「どうだ?」
「今夜は別に」かういつて浅井巡査は「随分君もえらいだらう。」
「何に、かうして廻つて歩くのは左程にもない。然しこの風には閉口だ!」
「うむ」と又思ひ出した様に、「君、例の一件は何と考へる?」声は至つて低い、風の音は一段高い。
 稲垣探偵は浅井巡査の傍にひた(※3)と寄つた(。)(※4)
「やはり市内に潜伏して居ると思ふ。然し今の所更に見当が附かない」、風の怒鳴で言(ことば)は途切れる。「被害者も判明して加害者の何物かも通知のあつた通りだが、犯人は離れて居るらしい。女の方は兎に角美人であるから何とか巧に所在(ありか)を晦まして居るだらう」人なき折と雖も決して忽(ゆるがせ)にせぬ、囁語(ささやき)は愈沈む。
「して男も市中に居ると君は考るか?」
「其処は余程考(かんがへ)問題だ。両人は中々深い関係だから尋ねて来ないにも限らぬ。」
「男は髭を生しては居ないといふぢやないか?」何思つたか突然浅井巡査が尋ねる。
「察するにあの当時は附髭だらう。何れにしても女の所在さへ突留めたら大丈夫だ、難儀は難儀だよ!」
「余程上手に犯したものだ。それで君は未だ少しの手係りをも得ないか?」
「今の所ゼロ(※5)だ、昼間は如何(どう)しても見当らないに定つて居る」
「そうだらう!」
「一概に美人と言つても広い東京では中々眼の附け場所が定まらない。いや其中(うち)には何とか埒を明かす心積(つもり)だが数へて見るとはや四ヶ月の余にもなつてつい近頃被害者が判つた位だから」
「今度のは例外さ!」
「尤も被害者の不明などゝは稀な事だ(。)(※6)あの様な事情の下にある者は少ない。丸で首あつての首なし事件と同様だ」
 折しも、下駄の跫音緩く近づいた人影に浅井巡査はキツ(※7)と眼を配つた、一本の杖を携へて、捜つて行く様子を認めたので、誰何する事を廃(や)めた。
 何処(どこ)(※8)の工場の汽笛が、闇を劈(つんざ)いてウーンと唸つた。
「もう君何時だ?」稲垣探偵は尋ねた(。)(※9)
「一時半だ!」
「そうか、此からが最も肝要な時間だ」
「うむ」
「もう失礼する、思はず時を過した。然しこんな時でなくては十分話が出来ぬから」
「そうだ、まあ十分骨折つて呉れ」
「御互に頼む!」
「ああ!」
 職務に忠実な二人は別れた。稲垣探偵の姿は忽ち闇の中に没した。軒端の瓦斯燈が悲し相に光つた。
 浅井巡査は尚暫く佇んで、何事をか深く考へて居る様子であつた。
 怪しい者も通らず、気に懸る騒動もなく、二月二十日あまりの夜は、風の狂ひに任せて、徐(しづか)に更けて行くのであつた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文圏点。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文圏点。
(※6)原文句読点なし。
(※7)原文圏点。
(※8)原文ママ。「何処か」の誤植か?
(※9)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月30日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2006年2月26日)