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あら浪 第二十六回 奇縁

不木生

 血縁は奇縁を生んだ。
「父に死別れたのが七歳の時でした。今の養父母に貰はれて、破産の為に朝鮮に来ました。此方へ参つても一時は中々悲境に沈んだのです。けれども稼ぎに稼いでやつと(※1)(もと)の様に取返しはついたのです。其中からも私だけは不自由なく学校で教育を受けてどうかこうか今は総督府に勤められる様になりましたが、中々今の両親も容易ぢやなかつたです。誠に深い恩を受けたのです。爾来二十年間は両親も私も日本へは帰らなかつたです。私より四歳(よつつ)下の妹があつたですが如何(どう)したのか何の音沙汰も聞きませぬ(。)(※2)何にしろ両親も年を取つたのですから、日本へ行く元気もありませぬ。私も今まで機会がなくて残念でしたが、今日図らず貴方に御目にかかつて本望でした。どうでしよう、妹はまだ生きて居るでしようか?」
「そうだつた……慥か雪とかいつた。」
「そうです」
「実は私も其方達に逢たいと思つたので、かうして風呂敷包に態と名前を書いて歩いたのぢやが、それが今日の縁となつた。
 私は御前の父と二歳異(ふたつちが)ひで、云ふも恥かしいが若い時は横着をした。親に勘当を受けて家を飛び出したが二十五歳の時。それから十何年は諸方を流浪して、悪い党類(なかま)と組んだり、苦しい仕事もしたり、親の死目にも逢はずに暮した挙句が無一文で、到頭ある時飄然(ぶらり)と兄を尋ねた。其時御前が確か五歳(いつつ)で、生れたばかりの女の子があつた。雪といふ名である事も覚えて居る。兄は私の尋ねたのを察して、三百円の包を渡して、もう兄弟の縁は今日限りだと言つた。其処で私(わし)も外へ出て考へた。四十にも近くなつて兎や角折檻せらるゝ身ではない。其迄の事を考へるとつくづく後悔にたえなかつた。それが為発心して爾来二十年はこうして雨風に当つて来た。兄が其後三年過ぎて死んだ事も、づつ(※3)と後で聞いた様な次第だから、御前達の身の上もつい(※4)知らなかつた。東京へは長らく行かないから、御前の妹の事も解らぬ。兎に角かうして風月を友に念仏の修行を為て、陸奥の果から、こうして朝鮮までも、足任せに踏み破るのも気持がよい。たゞ残念だつたのは両親(ふたおや)と兄の死目に逢はなかつた事だ。長らく御墓へも参詣(まゐ)らぬ」かういつて又何を思つたか、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
 二人はなほ懇ろに話し合つた。遠慮なき日は地平線に近(ちかづ)いた。二人の姿を異様な眼附で眺めて行く韓人もあつた。
 大村は今頃大分獲つたであらう。
「兎に角、叔父さん! 此処では話が十分出来ませぬから、私の家まで一緒に御伴致しませう!」
「いや、いや、茲で御別れする!」
「それは又、何故ですか?」と時雄は驚愕の念が禁じ敢へぬ。
「一たび逢つて話せば足つて居る」
「けれどそれでは折角の奇遇も……」
「いやゝゝ(※5)却つて宿望に悖る」
「では今夜、御宿泊(おとまり)になる所は?」
「行く先は皆泊り屋だ!」
「あまり張合が御座いませぬ、長くと言ひませぬから一晩なりとも」
「決して心配に及ばぬ」と頭を強く掉(ふ)つた。
「然し叔父さん! 近い内に、日本へ御帰りになるですか?」
「何時行くともわからぬ。気の向く時だから!」かういつたが其面(おもて)には一種云ふべからざる色が見えて、深く考に沈むだ様子であつた。
「それで国の方には寺院でも…?」
「寺院(てら)も庵室(いほり)も何もない。六十までも生きたが不思議、何時無常の風に誘はれる事ぢややら」
「すると逢ふ事は六ヶ敷いではありませぬか?」
「いや又逢へる。逢へる!」
「それは冥途の事ですか?」
「何、又逢へるぢやて!」

(※1)原文圏点。
(※2)原文句読点なし。
(※3)(※4)原文圏点。
(※5)原文の踊り字は「く」。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月29日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)