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あら浪 第二十四回 睫毛の涙

不木生

 目覚めた廣子は力なく云ふ。
「まあ、雪さか、苦しくないから止してお呉れ、気の毒だよ!」
「いえ、どう致しまして、まあ御寂しう御座いませう! 寒う厶(ござ)いますからもう一枚蒲団を懸けましようか?」
「否! 今日はね、少し暖いから善いよ、おゝ大変楽になつた!」
 廣子は寝返りをして、雪子に揉む手を止めさした。雪子は従順(すなほ)に手を膝に置いた。
「雪さや! 勝清は家に居るかね?」
「はい、あの只今お出掛になりましたが」
「又ね、あの子は何処へ行くのだらうね、毎晩外へ泊つて来たりなどして」二つ三つ咳をして更に、
「本当に近頃は如何(どう)したじやろね、家の事も思はないで居てくれて。雪さや御前何ぞ思ひ当る事はないかね?」
 廣子は勝清の不在が気に懸つた。勝清は廣子の可愛き、可愛き、更に可愛き一人息子である。これ迄仲の好かつた夫婦が、近頃勝清の態度に変化が見えた。勝清と雪子との間に何かありはしなかつたかとも気遣はれた。
「イエ別に」といつたが直様「御気に逆ふ様なこともしませぬでしたが」
「そうでない、どこか悪い所へでも行くの(※1)ないかよ?」と廣子は言(ことば)を転じた。
「何時(いつ)も、御友達の家(とこ)へ御出になると、囲碁で遅くなつたり。会社の用事も色色あるとかで……」
「そうかよ」と考へて、「御前も寂しかろ! 彼も夜だけは帰つたらよからうに」といつて又囁く様に「気が附かぬのかしら!」
 雪子は何とも答なかつた。廣子もただ襖を眺めた。豆腐屋の笛の音が淋しう響く。
「旦那様が夜御帰りにならぬのも皆、私が行き届きませぬからですわ」
「そうでない! 御前の心は私にはよく解つて居る。勝清はあの様な我儘だから、辛抱して面倒見てやつておくれよ。もう私も年を食べて意見するのも億劫だし、彼もそんな年ぢやないからね。それでも御前の意見ならよくきくからね。」
 勝清は廣子の腹をいためた子である(。)(※2)
「ハイ」
「御前も幸福(しあはせ)が悪いけれども此処へ来た以上は此家(ここ)の人だで、厭ではあらうが傍に居てやつてくれ」と頼む様な調子。
「御母(おつかあ)様、勿体も御座いませぬ」
 雪子は何となく悲しくなつて左の袂を眼に当てた。尾花が露に取巻かれて居る様に睫毛の先に涙が宿つた。畳を眺めた眼は、あでやかに輝いた。丸火鉢の鉄瓶がしやんゝゝゝ(※3)と音を立てゝ湯気を吹き出す。
「雪さや、御前近頃顔色が悪いぢやないか?」
「いえ、別に何処も……」と身を繕つた。
「そうかね」と口曇つたが「若しや御前、妊娠(みもち)にでもなつて居やしないの?」唐突(だしぬけ)に尋ねた。
 雪子は真赤になつた。そして笑むだ。嬉し相に思はれた。けれど顫へる様な声をして。
「実申しますと先月から……留つて居りますが」
 廣子は思ひ当てたと思ふ調子で而も元気よく。
「まあそうかね、いえさね、早う孫の顔が見たいと思ふものだでねー、遂、聞いて見たのだよ、そうかよ、嬉しいね、冷えるといかぬから、身体を大切にしてね」さも喜ばし相に言つた。
 折から下女のお清は静に襖を開けた(。)(※4)そして夕餉の仕度を伺ひに来たのである。なる程、外では鴉が頻りに啼いて、障子にさして居た日の影もいつしか消えた。
 雪子は俯いて尋ねた。
「御母(おつかあ)様! やはり御粥に致しませうか?」
「今日は大(※5)元気が附いた。お清や、御飯(おまんま)を炊いておくれよ!」

(※1)原文ママ。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月27日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)