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あら浪 第二十三回 雪子の友

不木生

 けれども雪子はこゝに一人の友を得た。それは小間使を兼ねた下女のお清である。雪子は学校時代に友を得なかつた。雪子の性質には当世流のお転婆気質が適応せなかつたのである。偶(たまたま)、手紙を往復(やりとり)する人はあるが打解けて話すはお清一人である。お清は市街(まち)を離れた田舎の百姓家の娘である。極々無邪気な温和しい性質(たち)が雪子の気に適つた。お清は廣子にも勝清にも気に入つたけれど最も多く語り、相抱いて涙にくれたのは雪子一人である。お清は穏かな家庭に育つた。けれど中流以下である。農家である。父や母は真黒になつて稼ぐ、泥に塗れて生計を営む。其間に交つて、星を戴き月を踏んだお清は、所謂一面の苦労は顔色にも見える。其上より物に気が附く。雪子を慰めた、雪子の為に泣いた。寂しさをも劬(いたは)つた。而(そ)して敬つた。それ故雪子はお清を妹と思つて愛した、慈んだ、憐んだ、且つ楽ませたのである。
 ところが雪子の最も強く愛し、最も深く頼り、底の底まで惚れ抜いて居た夫の様子ががらり(※1)と変つた。近頃は家に居ない方が多い、外泊が益(ますます)殖えて来る。夫の意に逆つた事、夫の機嫌を損じた覚えは一度もない(。)(※2)それにも拘らず囲碁や会社の用事だといつて、今まで(※3)去年までたゞの一夜も泊つた事のない(、)(※4)どんな遅くでも必ず帰つて来る夫が、か様に余所々々しい振舞をするのは何故であらうか。自分の心を察してくれない夫ではない。実際飽く迄承知して居てくれる。其勢か、夫は自分を避ける様に、自分を恐れる様にして居る。それが尚更癢(かゆ)いところに手の届かぬ程自烈度い。夫は我身に飽いたのであらう。我を間接に見棄たのであらう。他に他に…………我身を見限つたのであらう。かう思ふと胸が張り裂ける程辛い、身も世もあらぬ程悔しい。
 然(さ)れどもこゝに有力に雪子を慰めるものがあつた。即ち雪子は懐姙した。先月から此の兆候があつた。今や其れを確信した。
 子は夫婦の中の(※5)である。結(※6)の神である。子が出来たならば、この際の縺れは解けるであらう。夫婦を合せて一つの子となるからには、子は此の場の救世主である。雪子は喜んだ。また祈つた。なる程子は三界の首枷、其子の母は一生の絆(はだし)だといふが現下の状に引き較べてはどんな首枷も軽く思へる(。)(※7)出来るものなら只今生んで、只今笑はせて(※8)夫の心を戻したいと及ばぬ願も愚痴に交る。
 夫の心の如何は妻に与ると聞いて居る。して見れば、こんな歎(なげき)も皆自分の責任であらうか。自分は此れ以上に尽せない。死んだとて、これだけの事より出来ないに。何故夫は真心を汲んでくれないであらうか。
 自分を媒介(なかだ)つて呉れた叔父は、我身の上を知つて、心から同情してくれる。けれども斯様な事は打明けて洩す事ではない。夫の恥をさらす様なことは尚更出来兼る。まだ語るべきは姑とお清とであらう。
 今日も夫は好(すげ)なく出ていつた。約束があると言つて逃げる様に出ていつた(。)(※9)約束の如何は邪推でなくても読めて居る。昨日よりは今日、今日よりは明日と二人の間(なか)が段々かけ離るゝとは何たる情ない事であらう。家庭の平和は風前の燈の思、薄殻(うすかわ)ばかりに包まれた卵の白実にも似て居る。
 それにしても懐かしきは現在擦つて上げてる御母(おつかあ)様、聞いてもぞつとする様な世間に見る姑と嫁の関係を外れて世にも親切にして下さるこの母上、頼りとなる母様! この母様が、今は持病で軽くはあるが、仮初にも床に伏せつて被在(いらつしや)る。この寒空に悩み給ふを見ては、捨(すて)ては置けぬ。身を粉にしても……と思つた時、雪子は思はず
「御母(おつかあ)様!」と小声に叫んだ。

(※1)原文圏点。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文ママ。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文ママ。「鎹(かすがい)」の誤植か。
(※6)原文ママ。「び」の誤植か。
(※7)原文句読点なし。
(※8)原文ママ。
(※9)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月26日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)