夫を送つた雪子は悄然(しほしほ)と十畳の間に来て、すやゝゝ(※1)と眠つて居る母の枕元に、静かに座つて、母の顔を揉みにかかつた。
つくゞゝ(※2)と身の運命を考へて、木の影を印(お)した苔の上を眺めた。雀が庭石や垣根の上に囀るのを聞いて、深き思に沈むだ。そして寂しい寂しい身の経歴を繰返した。
雪子は一歳(ひとつ)の年に母に死なれ三つの時に父を失つた薄命の女である。父は井上傳蔵といつて、日本橋蛎殻町に住(すま)つた相場師であつた。金もあれば品位もあつた。人望もあれば交際家でもあつた。けれど内輪の家庭は、世にも恐ろしう憫乱を極めた。妻子まで有り乍ら、傳蔵は外に思ひ者を作つた。それは赤坂の××楼の芸者の小光であつた(。)(※3)其結果雪子の母は歎いて歎き抜いた(。)(※4)そうした挙句、到頭其れが原因(もと)となつて死んだ。雪子は生れて数ヶ月、兄の時雄が四歳(よつつ)であつた。
傳蔵には一人の弟があつた。これも放蕩に身を持ち崩して家には居らず、諫める人もない所へ、小光に対する熱狂は醒めず、遂に落籍(ひか)して左褄(ひだりづま)を取り直させ果(はて)は我家に居住はせたのである(。)(※5)
雪子は母の姉なる人の手に依つて危ふき命を長らへる事が出来た。
傳蔵は其後、三年ばかりを経て重患に陥つた。迚も回復の見込のないところから、財産に関する適当の処置を附けて、四十二歳を一期として死んだ。時雄は遺言により傳蔵の知己某に貰はれた。其人も破産の運命に遭遇して、時雄と共に行衛(ゆくゑ)を晦ましてしまつた。傳蔵の死後、小光は他の男を連れ込むで今は夫婦気取で暮して居るとの話である。
爾来、雪子は叔母の手一つで育て上げられ、女学校も卒業した。云ふに云はれぬ寂しい事もあつたが、叔母は飽く迄親切であつた。それや此やで、生れた家へは一度も出入せなかつたのである。
勝清の叔父、木村篤司は傳蔵と同じ町に住むで、同じ職業を営むだ。生前親交の縁(ゑにし)を以て、雪子は篤司の媒介(なかだち)で、二十一の花を手折りて勝清の家に嫁する事となつた。
勝清と雪子との愛情は通り一遍であつたけれども雪子に取りては、云ふに云へぬ程嬉しくも楽しくもあつた。夜の山奥に迷つた人が、狐火をも力強く思ふ様に、勝清を一心に頼つた。心の限りを尽して仕へた。勝清も彼女の無垢な、純潔な心根を窃かに喜んで居た。
姑の廣子は世間普通(なみ)とは全く変つて居た(。)(※6)それどころか雪子が願つたよりも遙かに柔しい人であつた。廣子は勝清を愛する如く雪子をも愛した。それが為雪子は真底から気強く暮す事が出来たのである。
兄があるといふ事の外には、時雄の顔も其後の消息も知らなかつた。けれども血を分けた兄は遉がに慕はれた。逢ひたく思つた。一人で思(おもひ)に耽る時はいつも時雄が慕はれたのである。
藤枝家の人となつた翌年(あくるとし)、自分をこれ迄育て上げてくれた叔母は死んだ。第二の母に別れた。雪子は此上もなく悲しんだ。寂しさは一入(しほ)小さい胸に漲つた。
こうなつた上は、柱とも杖ともなるは夫と姑の二人きり。夫の愛と姑の慈(いつくしみ)は、雪子の生命に外ならぬ。露よりも儚なき朝顔の身は、便るませ垣に力を添へて、風にも吹かれ色にも匂はむの風情であつた。それに付けても実の兄は何処で如何(どう)して暮して居るであらうか。見たきものは兄の顔、聞きたきものは兄の消息である。
焉ぞ知らむ。雪子が逢ひもし、語りもし泣きもし悲しみもし、慰めもしようと思ふ兄の時雄が、雪子よりも一層激しく強(きつ)く、妹よ、妹よと、夢にも忘れ兼ねて居らうとは!
(※1)原文踊り字は「く」。
(※2)原文踊り字は「ぐ」。
(※3)(※4)(※5)(※6)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年3月25日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)