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あら浪 第二十一回 罪人

不木生

 勝清は、芳江の甘言と、美容と、表情と待遇とに、心底から魅せられた。近頃小石川では二晩泊る事もあつた。けれど、帰つて見ると遉に雪子もみすぼらしい(※1)。雪子の優しう、態とらしからぬ誠実(まこと)は、楽しくも嬉しくもあつた。
 然し此先如何(どう)したらよいか。雪子は本当の妻、芳江は第二の…若し云ひ得ば…妻である。鶯宿梅と紅梅!、板挟み、艶ある板挟み! なれどもこれで諧謔的に解決せられる様な破目ではなくて、彼にとりては、あまりに六ヶ敷(しい)大問題である。やれ困つた! 考へ詰めると気の塞ぐのも尤(もつとも)である。
 一年も暮れた、新らしい年は来た。勝清の胸裡の衝突と、風が齎す寒気とは益(ますます)其の度を高めた。
 今日は一日家に居た、書斎での読書は、相変らず続けた。けれども其以前の様に、無邪気に読み破る事は、片時も出来なくなつたのである。
 会社の用事や囲碁の為に、友人の家に泊るのだと母や雪子に弁解(いいわけ)した。自分ながら薄弱な口実だと思つては居たが胡魔化(ごまか)すに好都合な廉も無かつたのである。
 母は復(また)、近来持病が再発(おこ)つた。寒さとの為に床に就いた(。)(※1)改つた病でないから、雪子は看護の傍、針仕事をして居た。
 久し振に琴の音が湧いた。母の需(もとめ)に応じて雪子が弾くのであらう、耳をえぐる様な音が、庭の寒菊の花伝ひに、勝清の書斎に流れ込むだ。其時、勝清は机に倚り掛つて将来や、過去の湧き出づる述懐想像に耽つて居たのである(。)(※3)
 久敷(ひさしく)雪子の琴を聞かなかつた。今其音は一種の魔力を具へて居る様に、常になく床しく美はしく聞えた。弾ずる毎に、どれ程の寂しさを含ませて居るだらうか。或は折檻の思ひを寄せて居るではないかと察すると、自分の心得違が瞭然(ありあり)と感ぜられる。雪子は恋しい(。)(※4)可愛い。
 ところが、芳江と二人でなした芝居が、走馬燈(まはりとうろう)を見る様に胸に浮ぶ。如何(どう)したらよからうか。弱つた!
 琴の音がパタリと止むで、勝清は外を見た。空の色や、垣根の様は、少しも不安な所がなかつた。折から襖を明けて雪子が来た。
「所(あなた)(※5)、如何(どう)遊ばしたの?」勝清の様子が近頃啻(ただ)ならぬのと今の顔附とを引合せて、極めて柔しう尋ねた。突差に勝清は何事も答へられなかつた。
「琴に聞き惚れて居たのよ!」
「あら所(あなた)(※6)!」かういつたが、其顔には何か聞きたい様子が見えた。雪子は然し言ひ兼ねた。二人は黙つた。庭の方を見て居た勝清は思ひ出した様に、
「御母(おつか)さんは良いか?」
「今、御眠(おやす)みになりました。」母が寝た隙を見て、雪子は夫の側へ来たくなつたのである。
「そうか!」
 雪子が何か言ひ出したら、どう答へようかと心配し始めたら、雪子と対(むか)ひ合(あは)して居るのが、裁判官の前へ出た罪人の様に思はれて、足が顫へるのを覚えた、不図芳江を思つた。勝清は立つた。
「雪(ゆきこ)さん!」
「ハイ」と見上げたが、勝清は見下さるゝより苦しかつた。
「一寸出てくるよ!」偸む様にいつた。
「何処へお出(いで)になるの?」
「うむ、約束があるから!」
「そうですか」気の浮かぬ返事をして、
「御帰宅(おかへり)になるでしよう?」
「其都合だ!」
 雪子は渋々立ち上つて羽織を着せた(。)(※7)
「御母(おつか)さんも」といつて恥かし相に、「私も寂しう御座いますから、早く帰つて下さいねえ」
「あゝ帰らう!」勝清は深く動かされた。
 戸口を跨ぐとお清が戸の脇に立つて居た(。)(※8)八百屋からの帰りと見えて、何か包むだ風呂敷を持つて居た。
「御出かけで御座いますか? 御早う御早う御帰り遊ばせ!!」
 雪子とお清とは顔を合せた。雪子は何ともいはず奥へ入つた。

(※1)原文圏点。
(※2)(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)(※6)原文ママ。「天」の誤植か。
(※7)(※8)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月24日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)