芳江のキヽ(※1)とした顔を見て、勝清は恍惚とした。自分に触れて居る女の肉の香が五体を麻痺せしめた。
「まあ一杯上げよう!」
「私は頂けませぬもの! 其だけは後生ですから許して下さい」
「いゝから飲めよつてば!!」
「だつて病気に悪いですもの!」かういつて壺を取つて、勝清の差出した盃へ酒を注いだ。勝清は黙つて見た。彼は芳江の肩へ深く手をかけて抱いた。そして芳江の唇へ盃の縁を差し附けた(。)(※2)
芳江は一口従順(すなほ)に飲むだ。
「どうだ」かういつて残りをぐつ(※3)と明けた。
「御酒よりも何よりも貴方の傍がいゝわ!」
「だから僕の傍に居るぢやないか?」
「本当に酷い!」怨む様にいふ。
「何が?」
「自烈度いね!!」
「此方は尚更自烈度い!」
言葉は絶えた。二人はある温い何物かに包まれた様な気がした。
「貴方!」
「何だよ?」
「不思議ですわ!」
「何がよ?」
「何がつて、あの時私が死んで居たらこんな事は出来ませぬわ!」
「そうだよ、それで思ひ止まつたでいいぢやないか?」
「私嬉しいわ、嬉しいけれど……」
「嬉しいけれど何だ?」
「一緒に居れませぬもの!」
「一緒に居るぢやないか?」
「一秒も離れないで貴方の傍に居たいわ! 出来るものなら貴方の御腹の中に入て居たいわ!」
「大遍(※4)だ、それでは此方が死ぬ。まさか食つて腹へ入れるわけに行くまい。」
「食はれてもいゝわ、食つて下さいよ、嬉しいわ、拝んで居ますわ!」
「そんなこと云はないで置いてくれ、此方が堪えられぬから!」
「私嬉しいわ!」かういつて芳江は勝清の膝の間に、深く顔を押し入れた。乱れた髪の毛が真珠の様な頸を軽く叩いて居る、勝清は一種の情に迫られた。芳江は強く頭を搖つた。
「何をするのだ?」
「貴方の御腹の中に入りこむの!」
「串戯(ぜうだん)ぢやない」かういつて又
「入れられるなら入れたいが……」
「あなた本当?」と起き直る。
「そうよ」と笑む。
「嬉しい」といつて涙ぐんだ。酔つた眼(まなこ)にも見えた。
「不景気な、おい! 泣いちやいかぬ!」
芳江は暫く眼を拭つた。
「おい! 酌をしてくれよ!」
芳江は黙つて従つた。
「あゝ、いゝ機嫌になつた。」盃を下に置いて、左の手で二三回頭を撫でた。飲むだ酒は僅かに二壺。
「あなたまだ……」
「もう沢山! 眠たくなつた!!」瞼がぼーつとした。
「それでは横におなりなさいよ!」
勝清は身体を仆した。そして芳江の膝を枕とした。ランプの火に照されて、安々と眼を塞いだ。
芳江は二三度勝清の額を接吻した。或は冷たかつたかもしれぬが、勝清は忝く感じ得た。柔かい、暖かい枕を敷いて、勝清の心は鉛の様に鎔けた。この刹那、彼は何物をも脱却した。芳江は懇ろに撫でゝ居た。
勝清は無邪気に、すやゝゝ(※5)眠り始めた。微かなる鼾が洩れた。芳江は勝清の面を長く見つめた。
何を思つたか、芳江は盃に酒を注いだ。そして二三杯続けて傾けた。美しい夢を結んだ勝清は何事も知らなかつた。
ランプはじゞ(※6)と燃えた。
木の葉の擦れる音がして夜は静に更けた。
(※1)原文圏点。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文圏点。
(※4)原文ママ。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文圏点。
底本:『京都日出新聞』明治44年3月23日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)