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あら浪 第十九回 奥様なら

不木生

(※1)(あなた)嘘ばかりいふんですもの! 昨日来るなんて。私一晩待ち明してよ!!」
 食卓を囲んで芳江は諛ふ様に言つた(。)(※2)
「寝てなら僕でも待ち明してよ!!」
 頬は赤く光つて、酒は徐(しづか)に血管をめぐる。勝清は近頃、酒に味を得た。
「罪が深いわ! 本当に。私の寂しい事つてば云ひ様がありませぬよ! 鼠がコトゝゝ(※3)するやら、そ………。」
「だから一人附けて上ようといふんぢやないか?」
「そんな人はチツト(※4)も欲しくはないわ! 貴方が来て下さらなくちや厭ですもの!」
「それは勝手だ!(※5)けれど此方(こちら)も寂しい!」
「だつて貴方は立派な奥様があるんぢやありませぬか?」
「だつて其方は立派な………」と瞻(みつ)める。
「嘘ばつかり!!」芳江はむつ(※6)とする。
「そう怒らなくつたつていゝぢや…」
「けれどチツトも私の事を思つて下さらないもの! 私はどれ程、思つて居るやらしれないわ。少しは私の身にもなつて下さいよ。それは奥様も見えるですから、どうしたとて私の方が無理ですわ、ですが……それは奥様のようには……奥様は幸福(しあわせ)ですね!」投げる様に云ふ。
「エロ真面目だね!」
「貴方はいつまでも本当になつて下さらぬからどうしたらよいでしようか。私は貴方の傍にさへ居たらよいですもの、貴方が厭だと思召たら一分も生きて居る瀬はありやしませぬわ。」
「まあ、そう悲観せなくてもよいよ。未来は未来、過去は過去!」
「何処までも変な事ばかり仰しやる! それは私の身としては、どんな辛い目も忍んで居なきやなりませぬが……」
「だつて僕もそう来づめにはして居れぬよ(。)(※7)家にや妻も置いてあるし、会社の用事もあるのだから」聊か真面目になる。
「私そう思ひましたの! 此度(こんど)御出になつたら、いつ迄もいつ迄も、引つぱつて離しやしまいと思つて居たの、十日でも一月でも此処から一寸も外へ出さぬ様にして居らうと思つたの!」強く言ふ。
「こりや大変だ! 困る困る。尚更そりや恐ろしくて来られぬ。」
 此時芳江は少からず色を変へた。勝清はそれを却つて憐れと見た。芳江は話を転じた。
「本当に来て下さいよ、私は腕一本無くつても、あなたが来て下さつた方がどれ程よいかしれないわ!」
「腕と更(か)へられた日にや、やり切れない!」
 芳江は勝清の答に頓着せぬ。
「貴方の傍なら、十日や二十日食はないでもいゝわ!」
「食はなくちや、死ぬよ!」
「死んでもいゝわ!」
「死なれちや弱る!」
「貴方と一緒ならさ!」
「それは御免だ!」
「私だつて死たくはないわ!」
「そうすりや、そんな事をいはなくてもよいぢやないか?」と責める。
「ですが、貴方は私のこれ程までの思を、ちつとも見て下さらぬもの!」
「そりや無理ぢや、二人で一個(ひとつ)の身体ぢやないから。まさか御前を子供の様に抱いて大道も歩けぬぢやないか?」
「私抱かれて居たいわ! 私好だわ、喜んで抱いて貰ふわ! 貴方、抱いて下さい、早うね、御願だわ、よ!!」
 芳江は勝清の傍に詰め寄つた。そして抱けとばかり押しかけた。
「これから抱くのか? や、大変だ、迚も僕(※8)の力では抱けないね。」
「いゝから抱いて下さい!」
「困るぢやないか、抱けないといふのだよ!」
「そう、そう、奥様なら抱けるですわね! どうせ私はそうでしよう!」
 つん(※9)として起き直つた。勝清は心も肝も溶けた。
「何をいつてるんだ!」

(※1)原文一字判読不能。「貴」と推測される。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文圏点。
(※5)原文ママ。
(※6)原文圏点。
(※7)原文句読点なし。
(※8)原文ママ。
(※9)原文圏点。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月22日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)