小石川の極閑静な辺に、以前貸家の札が貼(はつ)てあつた二階作りの新らしい家が、二十日ばかり前から塞つた。
からゝゝ(※1)と走(はしり)のよい格子を明(※2)けて出入りする、二十歳(はたち)あまりの女は、漆の様な髪を胸が透く程に庇(ひさし)に畳んで、雨に濡れた梨花(リア)といふより、夏日に照された紅薔薇(こうそうび)といふ意気な姿である。
茶地金透格子の綿入に、同じ羽織を軽く被(き)て、厚織帯に紋縮緬の帯上を申分なく似合せた。
鴉が哀つぽい声を放り出して、森から林へ飛んで歩くと、塀の上で日向ぼつこをして居た猫が驚いて飛び上るといふ、無邪気な寂しい土地を、稀ではあるが行きつ戻りつして居る嬋妍(あだ)な様は早くも人の眼に附いた。
落籍(ひか)された芸者か、娼妓か、若しくは人目をしのんだ華族の若様の思ひ者か、将(は)た又恋しき夫を失つて、義理を立てゝの詫住居(わびぞまゐ)か、或は当世流、女学生気質か、附添の婢(をんな)もなく、監する親も持たず、たつた一人で暮す不思議はそも難解だと、早くも眼星を附けた附近の書生が、下宿屋の二楷で詮議も区区(まちまち)であるとか。
あの眼附の凄さ! うつかり食はれた者ぢやないと悟つた男もあれば、御面相とかけた日にや、日本朝鮮、金の草鞋でもと、感心する輩もある。兎や角言ふな、此があるぞと、拇指(おやゆび)を出して縮かむ面々もあれば、障子の細目から鼻の下を長くして見入つた方もある。
ところが此家に時々尋ねて来る紳士がある。三十に足らぬ優男、眉は濃く色は白い。「畜生! やつてるな!」ある夜、ひそかに垣間見て、羨み居つた連中もあつた。
かの塩原に病を養つて居た勝清が不思議な縁から芳江と深くなつた時、家から急用の報知を受け、飽かぬ別れに袂を絞つて、久し振りに懐かしき母の顔を見た。
超(こよ)なく喜んだ母から用向の次第を聞くと勝清の叔父なる木村篤司が、ある事情の為に悉く所有の財産を失つて身動きもならぬ悲境の急を救ふべく、三千円の借用に来たのである。
勝清は母と相談して快く承諾した。そして篤司の憐れなる懇望によりて、期限も定(き)めず、無利息で貸した。叔父は飛立つて、喜んだのであつた。
自宅(うち)へ帰つて見ると、遉がに彼は、以前の勝清である。雪子に対する態度も変らなかつた。けれども彼の心は、既に其大半を何物にか、奪はれて了(しま)つたのである。
彼は芳江の快癒を祈つた。夢にも見た。そして芳江と逢(あふ)の日を痛切に待ち焦れた、離れて居るのは彼に取つて生爪を剥ぐよりも辛かつた。而(そ)して彼は其何故なるかを反省する遑がなかつた。勝清の胸には、冷静なる余地は寸分もなかつたのである。なる程雪子は可愛い、雪子の身の上を案ずれば涙も出る(。)(※3)けれども芳江の事に考へ及ぶと彼は■(ばう)(※4)然自失せざるも得なかつたのである。
芳江は間もなく来た。予定よりも早く尋ねて来た。待ち劬(くたび)れた芳江の顔を見ると同時に彼は塩原に於て、芳江が神に誓ふと云ひて而も誓はざるの約束を履(ふん)だのである。
下婢でもなければ、妻では勿論ない(。)(※5)たゞ約束通りに芳江を小石川に住はせて、自分は其処を訪ぬる身となつたのである。
勝清は下婢を傭ふべく取計つた。然し芳江は断つた。お世辞でもなく遠慮でもなく、心から拒絶した。勝清には不明であつた。けれども芳江の意に逆はず、当分一人で暮させる事にしたのである。
勝清は不安であつた。不安であつた為殆んど隔日に尋ねた。其都度、芳江に訴へられて、泊らざるを得なかつた(。)(※6)かくして勝清は一歩一歩に深い深い所に沈むで行くのであつた。
今日も夕方、尋ねて来た。芳江が心尽しの晩酌に、彼は天地を忘れて、楽しい夢地(※7)を辿つた。而も芳江の前に在る彼は、俎板に乗つた鯉と、選ぶ所がなかつた。
(※1)原文「から」に傍点。踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)立心偏に「夢」の「夕」部分が「目」。
(※5)(※6)本文句読点なし。
(※7)原文ママ。
底本:『京都日出新聞』明治44年3月21日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)