薄暗い電燈の下で、二人の紳士は、所々赤く、斑染(しみ)のついた白布(ぬの)を懸けた卓子(てーぶる)を囲むだ。二階の窓から眺めると風は凪いだと見えて、二三本の煙突から、潮の様に吐き出された煙が、真黒に長蛇の様に夕暮の空を、のびゝゞ(※1)と曲(くね)つて居た。
卓子(てーぶる)の上の菊の花は全然(すつかり)色を変へて居た、乱雑に置かれた雑誌の中で、表紙の壊(ちぎ)れて居るのもあつた。中折帽を取つて斜に椅子に懸つた紳士は、左の臂(うで)を杖(つ)いて、頭の毛を左から右へ撫でて、凝乎(じつ)と考へた。対(むか)つた男は、依然帽を被(き)て、少し仰ぎ気味に新聞を眺めて居た。表では支那人が突飛な声を出いて、物を売つてあるく声が聞えた。
拡げた新聞を急いで折り返し、ボンと下に置いた鳥打帽の紳士は、
「オイ、井上!」突然叫んだ。
井上は眼をしばたゝいて顔を挙げた(。)(※2)面長で口鬚が僅かにある。
「大変沈んでるぢやないか?」
「イヤ何」
「ところが僕は二三夜続けて変な夢を見たんぢやよ!」
「君の夢なら恃(あて)にやならない!」
「まあそういはんで聞け」丸い顔を蹙めた。
「ふむ」
「やつぱり近藤の事なのぢや!」
「どうなんだ」少々乗気になつた。
「近藤がどうも何か危害に懸つたんぢやないかと思ふ」
「それは又どうしてだ?」
「慥かにそれに違ないんぢや」
「夢なら本当にやならない!」
「どうも屹度そうぢやよ!」
井上は少々可笑しく思つた。
「では其証拠でもあるのか?」
「うむそれがあるんぢや!」と真面目になつた。
命じたミルクは来た。二人の前に恭しく置かれた。
「君は一月ばかり前の、屍体事件を読んだか、須磨の!」
「僕は知らぬ、何の話だ?」
「一口に云ふと、こうぢや、誰とも明(わか)らぬ男が絞殺(しめころ)されて、行李の中へ詰められて、明石から須磨の警察署へ運ばれたんぢや、」
鏘然(かちやん)と匙を置く音がした。井上は語る友の顔を眺めた。
「今も新聞に書いてあるが、未だに被害者の名さへも明(わか)らぬ相ぢや」
「なる程」
「其殺された男といふのが新聞で見ると近藤に似てるんぢや」
「そうか!」と井上は深く考へ込んだ。
「近藤が誰に恨まれる理由(わけ)があらう?」と続けた。
「そうなると、何ともいはれぬぢやが」
二人は暫し無言に帰つた。
「兎に角近藤は薄命児だ、一代の不運児だ」と井上は強く言つた。
「同情に堪えない! 始終自分は当世の六無斎ぢやと言つて居た。親も、兄妹も、親戚も、妻も、子も、死にたくもないんぢやつて」井上の深く考へ込んだのを見てなほも続けた。「然し羨ましい男ぢや、あらゆる血縁の覊絆を脱して、自由に進んで行けるんぢやから」
井上は始めて口を開いた。
「うむ、けれど彼の心の中は、どれ程寂しかつたか知れぬよ。それで実は、例の花ちやん(※3)と馴染んでから、彼は実に理(わり)なき親友を得たのだ。花ちやんの言葉は彼に取つて、妹よりも姉よりも母よりも嬉しく思つたのだらう。近藤はそれが為非常に励まされた。ところが段々馴れて来ると妙なものだ(、)(※1)胃病に用ふるモルフイ子の量を過した様に段々悪くなつて来た。然し近藤に取つては無理もない事、当然だ、僕等は深く彼を咎める訳に行かない」
平生多く語らない井上は、諄々と語り始めた。
(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文圏点。
(※4)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年3月19日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)