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あら浪 第十五回 迷宮

不木生

 かの須磨の屍体事件が意外にも世間を騒がしてより以来(このかた)、一月を経た。而も何の沙汰も手係(てがかり)も得られない。それは愚か、被害者の住所氏名も判然せぬ(。)(※1)(いよいよ)五里霧中をさ迷つて、迷宮の内に益(ますます)深く入り込んで行くのであつた。か様な大事件でも七十五日と共に空しく立ち消えるものであらうか。
 ある日、朝鮮京城の南大門をくゞり抜けて小寒い街路(まち)を斜に晩秋の夕日を浴びて、語つて行く二人の紳士がある。共に洋服に外套(オバーコート)を着て、杖を携へて居た。中折帽を被(き)た方が、鳥打帽(ハンチング)よりも背が勝れて居た。
 北から南へ吹き荒ぶ風は、名物の塵埃(ほこり)を捲いて、街路には最早、長煙管の姿も見えなかつた。支那人が曳いて行く汚ない荷車が、がたりがたり(※2)と厭な音を立てゝ、凸凹の道を通つた。行交ふ人は大方、日本人であつた。
「うむ、どうも変だよ、僕ももう消息(たより)があるだらうと思つてるが」中折帽がいふ。
「爾来君一月の余にもなるぢやないか(。)(※3)手紙の一本位出して来してもいゝぢやないか」
「そうだな」
「ところが変な事があるんぢや!」
「何だ」
「君は近い内に丸よし(※4)へ行つたか?」
「忙はしいから久しく行かぬ」僅かの口髭を捻つた。
「実は昨日、義州から帰つて、丸よし(※5)の主婦(おかみ)から聞いたんぢや。あの花ちやん(※6)な!」
「うむ近藤の深かつた……」
「そうじや、あれがやはり丸よし(※7)を出たんぢや」
「何故?」
「それでな、話を聞いて見ると、近藤が出発の前晩、彼処(あすこ)へ行つて、二人で長く秘々(ひそひそ)と話してたんぢや、そしたら其翌日花ちやんも、暇を乞つて出たんぢや」
「そうすると、近藤と一緒に日本へ行つたといふのか?」
「うむ、じやけれど、主婦(をかみ)が云ふのに、花ちやんには外に情夫があるそうぢや(」)(※8)
「どうせ彼女(あれ)の事だから当然だ」
「それで僕の察するに、花ちやんとは同行したんじやあるまいかとも思へる(」)(※9)
「何ともわからぬ、君も僕も例の事件で、出発の時に停車場へ行かなかつたから!」かういつて、中折帽の紳士は少し考へて。
「兎に角二人は中々熱かつた。近藤が連れていつたとしても不審はない。けれど花ちやんは好かない奴だ!」
「其所(そこ)は別問題さ、ぢやが近藤も彼女(あれ)と一緒ぢや折角儲けた金もなくしてしまふ」
「うむ近藤に取りては大変な首枷だ。」
「何方(どつち)にしても花ちやんも日本へ行つたには違いない。」
「で、丸よし(※10)の方は逃げ出したといふ訳なのか?」
「いや、公然暇を取つたんぢや、借金も全然(すつかり)払つて、」
「では何とか、出て行く時に言つて行つたんだろ?」
「判然(はつきり)は言はずに、もう身を固めるつてさ」
「そうすりや、間違なく日本へ行つたんだろう」
「やつぱり一緒ぢやかも知れぬ」
「そうだろうよ!」
 語り乍ら、二人は道を曲げた。日はとつぷり暮れて、幽かな火影がチラチラと洩れた。丸で田舎の町の様に寂しい。
 とある家の前に来て、鳥打帽の男は立止まつて云つた。
「ミルクでも飲まうぢやないか?」
「うむ、義州の話でも、ゆつくり聞かうか」
 二人は日本の、ミルクホールを兼ねた洋食店へ入つた。

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文圏点。
(※3)原文句読点なし。
(※4)(※5)(※6)(※7)原文圏点。
(※8)(※9)原文閉じ括弧欠落。
(※10)原文圏点。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月18日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)