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あら浪 第十四回 罪人

不木生

「所天(あなた)、まあ何をして御いでになるの?」
 訴ふる様に、糺す様に近よつたは雪子である。
 勝清は思はず振り返つた。然し芳江の姿は見えなかつた。けれども胸は太鼓の様に鳴つた。心臓が破裂するのではないかと怪んだ。
「あまり景色の好いに見惚れたものだから」
 はつ(※1)とした調子で答へた。
「明日出発(たつ)といふのに随分呑気ですわね!」
 勝清は汗の湧き出づるを覚えた。
「でも大抵用意は出来てしまつてるぢやないか?」
「それでも所天(あなた)、この寒いのに御風邪でも召すと大変だわ……心配でなりませぬから迎ひに参りましたの!」
「うむ、然しこの景色も暫く見えぬかと思ふと、何となう名残惜しいから、ついこう長くなつたのよ」
「そうですわ、けれど今次(こんど)参りますときは病気でなくてね!」
「それがよい!」
 二人は並んで立つた。
 雪子は眼を放つた。山の端は油画(あぶらえ)を見る様であつた。月は偽なく二人を照して、地上に墨の影を投げた。
「あなた、これどうしたの?」
 雪子は勝清の居た所に、薄紅梅の手巾(はんかち)を見附けた。そしてそれを取り上げて聞いた。夜の気に連れて、プンと香(にほ)つた。
「どれ?」声は顫へて異様に響いた。見ると今迄芳江が持つて居て、露やら又は何やらで湿つて居る手巾(はんかち)である。
「僕も気なしだつた、そうだね、誰か茲に置き忘れていつたのだらう、僕はつい先程此処に来たばかりだから!」
 気の附かぬ筈はなからうとは思つたが、強いて問い糺す気はなかつた。
「そうですか、まあ奇麗ですわ、どなたが忘れたんでしよう? 然しまた取りに来られるでせうから以前(もと)の所へ置きませう!」
「あゝ、それがよい。」と強く言ふ。
 勝清は離れて空を仰いだ、月は目映きまで冴え切つて居た。
「貴方もう何時になつて?」
 勝清は帯の間から金色の時計を出した。
「もう八時半だよ!」
「所天(あなた)、もう帰りませう!」
「そうだね――」
「お清も待つて居ますから!」
「そうか」と浮かぬ返事である。
「ね、早く帰りませう、御風邪を召すといけませぬから」自烈度そうに云ふ。
「それぢや、帰らうかね」
「遅いですから!」
 死刑場に行く罪人の様に逡巡して居る勝清の手を雪子は堅く握つた。歩んで石段に近(ちかづ)いた時、勝清は今一度振り向いた。そして立留まつた。
 社の傍から、芳江の白い白い顔が浮んだ。
「所天(あなた)、何をしておいでになるの、早く帰りませう」
「あまり景色がよいから!」
 勝清は突然、石に躓いた。仆れむとするを雪子は力任せに支へた。
「危ない! 階段(だんだん)ですよ!」
 二人の影は消えた。
 芳江は社の後から出て来た。走る様に歩むで、薄紅梅の手巾(はんかち)を取り上げた。其儘忙しく懐にした。彼女は思ふ儘歩行した。そして佇むで四方(あたり)を見廻した。何事をか考へた。
 勝清と雪子の去つた方に目を放つた時、彼女は一種云ふべからざる笑(えみ)を洩した。眼底には、物凄きある物が横(よこたは)つて居た。
 夜は死んだ様に静である。彼女は不図、社の方に眼を放つた時、思はず身を顫はせた。ある物に追ひかけらるゝかの様に、走つて山を降りた。

(※1)原文傍点。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月17日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)