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あら浪 第十三回 激烈なる恋

不木生

 翌日(あくるひ)も、其次の日も、又其次の日も、同じ場所で、同じ時に二人は会した。勝清は今は、命ぜらるゝといふよりも呼び寄せらるゝ様であつた。押し出されるといふよりも引き附けらるゝ方であつた。語れば語る程、芳江との間が密になつた。相互の心が恰も強酸が金属を侵す様に融合した。芳江の言葉は日毎に熱烈を加へた。露骨を増した。
 哀訴、温言、熱誠、露骨と勝清の耳には極めて秩序的に響いた。自然に納(とく)(※1)せられた。今は勝清は芳江に離れ難く感じた。毎夜袂を別つときは芳江は涙を以てした。血をも含めた。生木を割くが如くに離るゝのが苦しくなつた(。)(※2)勝清は翌(あ)くる夕方を掻き寄せる様に待つた。家を出る時、急々(いそいそ)と歩むだ、而も必ず芳江は先に来て居た。
 けれども、雪子の事は流石に忘れ兼ねた。実の所雪子も、一層可愛くなつて来た。騒がすのも悪いと思つて、雪子に深く秘した事は、然し雪子に気づかれはせまいかと怖くなつて来た。これでは雪子に済まぬと思つた。思つたは思つたが、芳江には益(ますます)逢ひたくなつた。話したくなつた。それで家を出る時は、神気を爽快にする為だと断つた。
 かくして十日を過ぎた。
 勝清は今は、芳江を我物だと思つた。芳江を離れて自分が成立たぬと思つた(。)(※3)勝清は遂に激烈なる恋に陥つた。
 かゝる内に、勝清の留守宅から通知があつた。急に相談したい事があるから、二三日中に帰るべき事を報じて来た。病も癒えたから、母の命に従ふ事にした。
 夜!
 月は皎々と照つた。塩原の景は万倍の妙趣を添えた。夢の様に淡い。
 勝清と芳江は無声の曲を奏する靄の中に包まれた。
 打連立つて散歩し乍ら、二人は橋の上に来た。激流は月を砕いて、散る玉は浮世の物ではなかつた。芳江は殊更に。
 芳江の手を取つた勝清は、逃さじと様に堅く握つた。脈膊は調子を揃へた。
「貴方、堪忍して下さい!」
「何を?」と極めて軽く。
「貴方にこんな心配を懸けたのも、皆な私の仕業です。けれど、どうしても思ひ切れませんもの!」芳江は融合せよとばかり、身体を押しつけた。二人は欄干に凭れた。勝清は電気に打たれた様に、気は遠く遠くなつた。
「何時迄も見棄ては下さらんでせうね?」
 勝清は唯、まめやかなる恋の奴(やつこ)となり終つた。此際彼は渾身の努力を以て漸く血路を見出した。
「聞いてどうするね?」
「貴方は本当に非道いですわ!」けれど芳江は勝清の心を飽く迄も知つて居た。
「何故?」と勝清は済ました。
「いつも私に、悲しい思ばかりさせるのですもの!」
「だつて、解り切つた事を聞くからよ!」
「ですけれど、心細いですわ!」心から云ふ。
「此方(こつち)も心細いよ!」
 芳江は「嘘!」と軽く云つて、勝清の腕を掴むで顔を見上げた。月は超絶の容貌を照した。
「では本当に明日御立発(おたち)なの?」
 勝清も心細く思つた。
「そうだ明日出発(たつ)のよ!」
「悲しいわ!」芳江の眼は曇つた。勝清も堪えられなくなつた。風が二人を梳つた。
「貴方、御約束は決して忘れて下さるまいね!」
「勿論だよ!」
「では神様の前で誓ひませう!」
 二人は何を約したか、二人の外には誰も知らぬ。打並んで例の階段を登つた。例の場所に腰を下した。芳江は神の前に行くのを恥ぢた。
「私本当に寂しくなるわ!」
「だつてまた直一緒に……」此方も力ない。
「一人になると困るわ!」
「だから早く癒る様に気をつけてくれよ!」
「どうしても明日出発(たつ)の?」
「そうよ!」「あの約束は屹度ですわ!」
「うむ」
「どういう因果でしよう?!」
 芳江は勝清の肩に犇(ひし)と寄り縋つた。肉の温みが、互に通つた時、二人は恍惚とした。月は様々の二人を平等に照した。
 忽倏(たちまち)、石段に軽き跫音がして、二人は機械の様に立ち上つた。芳江は疾風の様に社の後へ。

(※1)原文活字部分空白。
(※2)(※3)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月16日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)