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あら浪 第十二回 寂しい笑ひ

不木生

 勝清は芳江の微妙の声と玲瓏の感情とに酔つた。芳江はまだ眼を拭つて居た。彼は芳江を憐んだ、弱点を具へたるに同情をした。芳江は自分等を幸福だといつた。夫婦を羨むだ。彼は芳江をもこの幸福に加へたいと切に願つた(。)(※1)女に経験少き身は、生来の心情と、女の口から出た言葉とによつて深くも動かされたのである、芳江が我身を慕ひ、我身に訴ふるを憎からず思つた。別に其処に恋は成立たないにしても。
 其にしても此際、芳江を慰むべき言葉がないに悶えた。
「芳江さん!」
 我名を呼ばれた芳江は嬉しそうに仰いだ。そして一種の寂しい笑(わらひ)を浮べた。
「それではあまり、気が小(ちさ)く過ぎるぢやありませんか?」
「…………………」
「病気を増すといけないです。身体が大切(だいじ)です!」これだけ言つて二の句は継げなかつた。
「大切に致します。折角生命(いのち)を助けて頂いたのですから、早く心懸けて治しますわ」そして更に強く、「私の生命(いのち)は貴方のものです。貴方の為には、どんな事でも致します」かういつて又更に(※2)貴方!」と呼びかけた。
「何ですか?」
「私貴方に御願が厶(ござ)ります!」
「如何(どう)いふ願ですか?」
「聞いて頂けるでしようか?」
「聞きますとも!!」
「何卒(どうぞ)、私を召使として使つて下さい!」
 勝清は意外であつた。
「貴方をですか?、貴方が為す事ではない」
「それでは私の気が済みませぬ。如何(どう)にもして御恩返しが為(し)たう御座いますから」
「いや、僕はそういふ意(つもり)ではなかつたです、貴方に同情をしたのです!」
「貴方、本当に私の身を憐れと思つて下さいますか?」
「憐れと思つたから為(し)たのです!」と怪訝な顔をした。
「では、そう思召たら、私を召使に用(つか)つて下さいませ!」
 勝清は奇異の念を除き得なかつた。
「それは可笑しいぢやないですか?」
「いえ私は決して可笑くはありませぬ! 私は本当に申上て居ますから!」
「だつて貴女を召使とするのは……」
「貴方、本当を仰つて下さいませ!」
「本当ですとも!」
「では御厭で御座いますか?」
 勝清は答ふる所をしらなかつた。
「では改めて御願致します。どうぞ私をこれから貴方の傍に置いて下さいませ!」
「今は召使もある事ですから…」と小さい声で歎く様に云ふ。
「それでも私は貴方を離れては、一刻も生きて居れませぬ。」かういつた時芳江は何か思ひ当る所があると見えて、身を顫はせた。そして強ひて平気を装つた。勝清は少しも知らなかつた。
「困るぢやありませんか?」
「否(いえ)、それでないと、私は貴方に誠に済みませぬ!」
「そんな心配はせなくつてもいゝです!」
「否(いいえ)、どうしても」といつて芳江は悄然(しほ)けた。
「すりやどうしたらよいのですか?」勝清も困り果てた。
「貴方、私を気の毒なものと思召して下さいますか?」
「今更いふ迄もないです!」
「それは本当ですか?」
「そうです」今は争ふ元気もなくなつた。芳江はそれを知つた。
「屹度で御座いますか?」かういつて芳江は、ひたと勝清に接して手を取つた。
「勿論ですよ、芳江さん!」
「アラ、貴方何故「芳江!」と仰つて下さいませぬ!?」

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文括弧欠落。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月15日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)