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あら浪 第十一回 運命の擒

不木生

 翌くる夕方、勝清は昨日の場所へ来た。芳江は既に来て居た。家を出る頃、利鎌(とがま)の様に、斜に空に懸つて居た二日月は、何時の間に姿をかくしたのか、見ゆるのは唯、ふわゝゝ(※1)と飛んで居る紫の雲ばかりであつた(。)(※2)冷たい風が二人を包むだ。
 勝清の来たのは、好奇心でもなく、真の慈悲心でもなく、乃至は芳江の美貌を慕つた訳でもない。彼は内心、何物にか命ぜらるゝ様に感じた。押し出される様にして来たのである。然し勝清は厭な(※3)といふ気は毛頭も抱かなかつた。景色も気に入つた。
 話が身の上に移つた時、勝清は芳江に、今一度辛抱して叔父の下へ帰るよう懇ろに勧めた。其れが至当であると説いた。言葉の限り熱心に聞かせた。けれども芳江の決心は頑として翻らぬ(。)(※4)徹頭徹尾不承知である。金輪際動かない。天が地になつても帰る気は秋毫もないと云ひ出した。勝清は驚いた。寧ろ恐れた。
 然れども、一層同情に堪えぬべく余儀なくされた。如何にもして救つてやりたい、幸福にしてやりたいの念が沸騰した。芳江は自分の手より外に救はるべき者がない。芳江を離すのが惜しくなつた。それ故に、此の上は及ばず乍ら、御助け申さうと、勝清は芳江に申し出したのである。
 芳江は身を揺(ゆすぶ)つて嬉しさに泣いた。
 彼等は極めて緩やかに、打連れて散歩した、勝清は様々なる「運命」に考へ及んだ。芳江の容姿と香気とにて陶然として(※5)殆んど無我の境を歩むだ。
 芳江は甘へる様に言ふ。
「ね、貴方!」
「何ですか?」
「病は治癒(なをり)ませうか?」
「それは治癒(なをり)ますとも、どんな病でも気一つです!」
「そうでしようか」声は至つて小さい。
 勝清は胸中悶えた。何か言はむと欲して而も云ふを得なかった。芳江は先(さきだ)つた。
「貴方は御幸福(おしあはせ)ですね」訴へる様な調子。
「何故ですか」勝清は問の真意を解釈するに苦んだ。
「貴方の奥様は尚更御幸福(おしあはせ)です」
「どういう理由(わけ)で?」勝清は怪訝な思をした。
「…………」
「え?」と聞いて見たくなつた。
「そうではありませぬか?」語勢が強い。
「どうして?」
「貴方程慈悲深い方と一緒に居ましたら……」と勝清の顔を偸み見た。
 勝清は何とも答へなかつた。
「貴方御怒りなすつた?」
「いや」
「私は真心を申上げたのですから(※6)
「貴女も未来に家庭が作れます!」
 芳江は俄に黙つた。どうしたのかと見ると、手巾(はんかち)を眼に当てゝ居た。
「どうしたのです?」聞かざるを得ない。
「私は悲しう厶(ござ)ります!」
「何故泣くのですか、え?」
「私の様なものは、誰も貰つてくれないと思ひましたら」
 勝清は女は斯くばかり弱きものかと不思議に思つた。芳江の美貌と性情を以て、何も悲しむ必要はない、世間に余された女は一人もない。然るに全々未来の事を予め歎くとは受取れない。受取れないけれども女の真の弱点は此処かとも思はれた。女に多く接せざる彼は其弱点の擒になつて居る事は夢にも気附かなかつたのである。
「貴女に向つてそれは未来の事です。取越苦労などはせなくてもよい!」
「迚もこんなものでは誰にも棄てられます(。)(※7)それを思ふと悲しうなりました。」かういつて又泣いた。勝清は更に解らなくなつた。彼に妻がなかつたらば(※2)此時「私が」と言ひ出したかつた。勝清は途方に暮れた。
「マアそんな事は今、歎かなくてもよい」
 四面(あたり)は朧として、山の輪廓のみが判ぜられた。水の音は耳を洗つた。流星の長い長い尾を引いて南から北へ辷つた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文傍点。
(※4)原文句読点なし。
(※5)(※6)原文ママ。
(※7)原文句読点なし。
(※8)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月14日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)