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あら浪 第九回 丸で芝居の様

不木生

 勝清は恐るゝゝ(※1)芳江の手を取つた。秋の日は名残なく暮れた。けれども闇は道を蔽ふ程ではなかつた。二人は無言に歩んで無言に階段を下りた。雪子やお清が嘸待ち憊(くたび)れて居るであらう。若しや迎ひにでもと思ふと芳江の緩き歩行(あゆみ)が気に懸つた。冷気は一入(ひとしほ)身に沁みた。様々の事が眼の前に描かれて、ぶるゞゝ(※2)と顫えた。橋の袂に来た時芳江は口を切つた。
「東京へ来ました時は、どんなことをしてゞもと思ひましたが、こんな風では何事も間に合ひませぬ」
「物事はそう、先から先まで心配してはいけませぬ」
 勝清は思ひ出した様に俄かに尋ねた(。)(※3)
「それで貴女はもう故郷(くに)へ帰る気はないですか?」
「死んでも帰る気はありませぬ」判然(はつきり)言ふ。
「その決心なら何でも出来ます、然し」といつたが、叔父や叔母が如何に非道であつても、芳江の家出を捨て置く事はないであらうと考えた。
「故郷の方から捜しに来るでしよう」深く聞く心積(つもり)もなく言ひ放つた。
「どうして捜しに参りますものか」
「でも、まさか」
「いえ捜しに来ない理由(わけ)がありますから」
 芳江は声高に言つた。理由(わけ)とは何であるか前に語つた外になほ深い訳があるであらうか。けれども強ひて聞く元気はなかつた。
「そうですか」僅かに答へた。それと同時に芳江はいつた。
「何処(どちら)に御泊りで御座いますか?」
「あゝそうでした、僕は秋風楼に居ますが」かういつて無意識に「妻も一緒に来て居ますから」と附加へた。芳江は別段気にも止めなかつたらしいが然しまだ深く沈むで居る様子であつた。
「又ゆつくり考へましよう!」自分ながら曖昧な慰め言だと思つた。
「明日の晩も今のところに来て頂けますでしようか」芳江は心配そうに見上げた。この時勝清の眼に、闇から茫乎(ぼーつ)と抜け出した芳江の顔が映つた。これを見た時何事も忘れた。
「ではそうする事にしませう!」
「こちらですね、送るといゝがこれで失礼します」道の辻に来た時、勝清は叫んだ。芳江は恭しく御辞儀をした。そして強き跫音を立てゝ歩いていつた(。)(※4)されど思に耽つた勝清には聞えなかつた。
「マア旦那様、どうしなさいましたと思ひましたわ、奥様も大変御心配でいらつしやる」提灯を持つて門口まで出懸けたお清が勝清の姿を見るなりかう叫んだ。
「やあ、それはすまなかつた」
 杖(すてつき)をお清に預けて其儘二階へ上つた。嬉し相に、段梯子の上まで来た雪子は「貴方御寒くはなかつたですの? 御顔色もよくありませぬわ…」かういつて何事か云はうとした勝清を遮つて、
「それに闇(くら)くなつて来ましたし、あまり遅いものですから」恨む様にいふ。
 顔の色が悪いと言はれて、ぎよつ(※5)と思つたが、
「心配は入らないよ、滅多に身投……などは為ないからさ」又忽ち転じて「いや夜の景色は格別だ、これから毎夜出る事にしたよ、殊に月が出る頃になつたら堪らぬであらうと思ふ。」
「大相な元気ですこと」夫の快活なのを見て雪子は安心した。
「独りで空想に耽つて、夜の山水を眺めるのは実に好い」
 雪子はこの「独りで」に少しも気を留めなかつた。何時の間にか昇(あが)つて来たお清が、
「そしたら私共も御伴致しますわ、ね奥様」と意味ありげにいふ。
「御前達は昼の役で僕が夜の役さ!」
「丸で芝居の様ですわ!」雪子は寂しく笑つた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)原文傍点。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月12日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)