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あら浪 第七回 女の泣き声

不木生

 奇(めづ)らしい巌が惜し気もなく突出て居た、道は蛇の様に繰紆(くね)つて居た。山ばかりかと思ふと時々パツとした野原が見えて、小さな人家が松の間から寂しく際立つた。落葉と青葉が強い印象を与へた、どん底にはがあゞゝ(※1)と蹴たゝましい音楽を奏して居た。
 一人の乞食が居た。破れた茶色の布を担いで頭や顎には黒白の長い毛が蓬の様に生へて居た。一本の太い竹を膝の上に寝かせて、冷たい石の上に蹲つて居た。それを見るなり勝清は雪子の話を思ひ出した。丸で人間とは受取れない。怖くなつて来た。
「これだ、なる程気味が悪い。」
 勝清は引返そうかとも思つた。何時の間にか近寄つて居た。乞食は力なく物を乞つた。哀れな声を出いて頼んで居た。これも同胞かと思ふと気の毒でならなかつた。
 勝清は懐から蟇口を出いて幾何(いくばく)かを与へた。乞食は頻りに押し頂いて居た(。)(※2)何処(いづこ)に居て、どうしてそんな境遇になつたか、聞いて見たかつた。話が面倒になるのを恐れて無言で過ぎた。
 半丁ばかり来て振返つたら、苦し相に歩むで行く乞食の姿が見えた。胸の中に形容の出来ぬ感情が湧いた。
 日は段々暮れていつた。蒼黒い色が万象を彩つた。出逢ふ人は一人もなかつた。人家もなかつた。けれど壮快を覚えた。自分の病気を治したのもこの地の空気かと思ふと、勝清は中々山水を見捨兼ねた。
 軈て渓流に架した橋の上に来た。其処から突当りの山を見ると、別世界の様に思はれた。橋を渡ると石の階段がある。登るも太儀に思はれた。引返さうとした。けれど折角来たからと云ふ考が起きた。高い所から景色が見たくもあつた。
 杖を便りに五十と数へた時階段は尽きた、百歩の近き正面には小社があつた。参詣する人の影も見えなかつた。老松が神楽を奏するばかりであつた。
 ところが断崖に臨んだ所に、一人の女が座つて居る。勝清はがたゞゝ(※3)身を顫はせた。
「狂人(きちがひ)!」突差に胸に閃いた。
「何をしてるのだらう?」と立ち留つた。
 女は頻りに手巾(ハンカチ)を以て顔を拭つて居た(。)(※4)
「泣いて居るんだ」勝清は愈(いよいよ)気味が悪い。
「帰らう!」と思つた途端、泣き声が耳に入つた。恰も呼び寄せらるゝ様に響いた。
「飛び込むのではなからうか」と思ふと見逃して帰る訳には行かなかつた。
「仔細を聞いて見よう」かういふ気になつて、近よつた。女は別に驚いた様子もない。
 代りに勝清は驚いた。若い女だ、束髪に結つて新御召の羽織を着た美しい女だ、卑しからぬ女だ。「妖怪(ばけもの)ではないか?」「いや違ふ違ふ」女は連(しき)りに泣く。
「貴女はどうしたのです?」ホツト一息ついた。女は答へなかつた。
「何故泣くのですか?」思はず続けた。
「ハ…イ」声が幽かに洩れた。勝清は為す所を知らなかつた。
「打遣つて下さい……私は生きて居れませぬ」いふ声は顫えて居た。
 身投げだ! 自殺、若い女、深い理由(わけ)、不憫、取とめのない事が一時に頭に浮んだ。
「早まつてはいけませぬ!」
「ハイ」愈(いよいよ)細い。
「無理に死ぬのは止しなさい、つまらぬ考だ」
「いえ」と覚悟。
「いやいかぬ!」強く言ひ放つて「事情(わけ)を聞きませう!」
「ハ」涙を拭ふ。
「マア御立ちなさい!」軽く肩に手を懸けた。女は従順(すなほ)に立ちかけた。俄に顔を蹙めて仆れた。
「どうしたのですか……足が痛い?」
 勝清は女の腕を取つて立つた。女は勝清に縋つた。一種の温かみを感じた(。)(※5)同時に異様の感に打たれた。
「彼処で仔細を聞きませう」社の前に当る木の台まで歩むだ。二人は腰を下した。
 晩涼は頓に加はつた。幕を閉める様に闇黒が押し寄せた。

(※1)原文傍点。踊り字は「ぐ」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。
(※4)(※5)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月10日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)