今、宿を出た男は、藤枝勝清といつて、今年二十七歳だ、余り喋舌(しやべ)りもせず、笑ひもせぬけれど、笑ふ時に心から笑ひ、喋舌(しやべ)る時に口を尖らす事もある。一口に、坊ちやん嗅味が残つて居るといふも差支ない。所謂世の巴渦(うづまき)には未だ投じない。「恋とはどんなか、味つて見たい」こんな考もなしで過した。
十六の年、父を失つて、無邪気の夢を破つた。「もう御前もこれからは気を換へて」といつたが母は一人児なる彼を無闇に愛した。彼は横着もせず、母の気も揉ませなかつた。機会に邂逅(でつくわ)す事のなかつただけ、彼は運がよかつた(。)(※1)又幸福(しやはせ)であつた。父の死後叔父が色々の世話をしてくれた。
父は東京で商売を営んで、一代に夥多(どつさり)金を作つた。「もう私も年を取つて、此商売の紛雑(ごたごた)がうるさいから、其日が食つて行けぬでもないで止めよう」父の死後、母は頻りに云ひ出して廃業した。けれど二十四の年高工を卒業した。今はさる会社へ出勤、家は麹町の静かな所にある。
親しい友人は一人もない。読書と囲碁が好きだ。斯(こん)な人は世間によくある(。)(※2)個人主義が発達して居たのかもしれぬけれど他人に同情深い。面白い性質(たち)である。
誰でも勉強して豪い者にならうと思ふが「こうして暮して行けば学問はせいでも安気でやつて行ける」母が口癖にいふので、気が張つた様に又抜けた様に学校を暮したが「君の頭脳(あたま)は好い」つて教師に誉められた事もあつた。
「いつまで坊ちゃんで居るのだよ、私も年寄つたで早う孫の顔を見て」かういつて母から頻りに勧められて終(つひ)貰つて見る気になつた矢先、叔父の媒介(なかだち)で、卒業の翌年、今の雪子を貰ひ受けたのである。
「自分の妻を「御前さん」と呼ぶも変だ」貰つた当座、こんなことも思つた。そして顔見合すのを互にきまり悪がつて居た。
馴れてくると夫婦の情愛が出来てくる。雪子の憎気なく仕へてくれたり、可愛い顔附を見ると「何故二年も早く貰はなかつたかしらぬ」と考へる事もあつた。余所へ出る時、着物を被(き)せてもらふ有難さに「早く帰つて又脱がせて貰ほ(※3)う」と楽むこともあつた。
其時分母の持病が発(で)て、医者から転地療養を勧められたので、お清も一緒に塩原へ来たのが今から二年前になる(。)(※4)
若夫婦は珍らし相に田舎の道を手を曳いて、人の居ない山奥へ、二人きりで行くのが常であつた。
二ヶ月の滞在で母は癒えた。楽しい土地を去つて、東京へ帰つてから、勝清は毎日元気よく通勤した。
雪子は勝清に魅せられた、そして心の限りを尽して愛情を傾けた。勝清は雪子を好いたが、雪子に好かるゝ程度に比べると遙に劣つて居た。「甘い言葉を数々いつて頂くより、時々嬉し相に莞爾(につこり)なさるのが、どれ程楽もしいかしれやしないわ」口には言はないがこんな素振は明かに見られた。
姑は珍らしい気の柔(やさ)しい人で、雪子を自分の子の様にして可愛がつた。それ故家庭は円満であつた。且つお清も無邪気で他人に好かれる性質(たち)だから、時々三人の間に挟まつて家の人の様に暮し、藤枝の家は温かい風が吹いて居た。
元来蒲柳の質な勝清は二ヶ月前一寸した事から熱が出て、段々激しくなつて来て、一時は湯水も咽喉(のど)に通はぬ程であつた。僅かに熱の減(ひ)くのを待つて一月前、紅葉が漸く色づいた頃、病躯を養ふべく来たのであつた。
雪子とお清が附添つて、心尽しの介抱と二となき熱心の結果再び旧の身になつたのである。
一週間ばかり前から、三人して毎日近郊を散歩した、今日は午前少し風があつたので雪子とお清とが出かけ、そして勝清が今、夕景を探りに出たのである。
(※1)(※2)原文句読点なし。
(※3)原文ママ。
(※4)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年3月9日号(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2007年2月26日)