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あら浪 第五回 巌上の人

不木生

 山は常(いつ)も同じ山だ、谷も正しく一つ谷だ、けれど視る眼と心とに差別(しやべつ)がある為に(※1)或る人は之を見て楽しみ、ある人はこれを見て悲しむのである。嘗て一月前に、枯木の様な身体を楼上の中央に据えた当時を追回すると恐ろしい様な気が胸を塞ぐのである。
「思つて見ると二度と来たくはない。病気の為に来たかと思ふと、山を見てもぞつとする。」
「全くですわ」雪子は同情した。「けれどいまだに病気であつて御覧なさい……」
「そうだ雪さんもお清も病人だ。」かういつて話を転じて「此後(これから)遊覧の為なら、塩原は選ばないよ!」
「そうですわ」言ひ淀んで「それでも、彼方(あちら)の村へ出て、ずつと歩いて来て御覧なさい、何遍でも来たくなりますよ」
「アゝそういへば今日は二人で廻つて来たのだな?」
 お清は始めた。
「今日は大へん歩いて来ました。どこまで行つても奇麗な所ばかりでしたから、どんゞゝ(※2)やつて行きましたの(、)(※3)そしたらそれはそれは嶮しい所へ……」
「岩の間に美い花が沢山ありますし紅葉も所々残つて居ましたで、この子と二人が一筋道を話して行くと大変奥へ登りましたの、そして高い高い所へ出て、下を見ましたら本当に……」
「下を覗いて見たのか?」
「おゝ怖」お清は受取つて「旦那様だつて出来ぬわ、ね奥様」
「本当だわ!」
「今度は二人で僕の攻撃か?」
「ホホホホ」
「ハヽヽ」
 雪子は真面目になつて、
「其ばかりならよいが」態と口を噤む。
「どうしたのだ?」男は解らぬ。
「ねお清?」
「そうでしたわ」意味ありげに云ふ。
「何の事か解らぬぢやないか」益(ますます)気を揉む。
「実(※4)!」と又黙る。
「一体何の話だ?」強く聞く。
「其巌(いは)の上に変な人が居ましたの」
「誰が?」自烈度(じれつた)そうにいふ。
「お清御話し!」
「まあいゝぢやないか、早く!」
「六十ばかりの人ですの! 恐ろしう痩せて居て、頭髪(かみ)の毛や鬚が一尺も伸びて居ましたの、薄黒い布を着て座禅を組んで」
「フム」
「私共が傍へ行つても黙つて居ましたの、其内に私共の方を凝乎(じつ)と見て、又もとの通りになつてしまひましたの、其眼附つてば本当にぞつとしましたわ」
「それから何(どう)したのだ」男は興に入る。
「気味が悪いから逃げる様に戻つて、見えぬ様になつた所でホツとしましたの」
「意気地なしだね「誰だ」つて聞けばよかつたのに」
「聞くどころか追つて来はせぬかとビクビクして来ました、」とお清が口を挟む。
「罪がないね!」男は含笑んだ。
 日はどんゞゝ(※5)降つて行く。三人は斯(さう)して無意味な時を費した。若夫婦は大方、無意味なる日より送れないものである。
「僕も遽かに出たくなつた」
「だつてもう直晩ですわ、冷えるといけませぬから」驚いて雪子は夫の顔を見た。
「旦那様明日になさいまし」お清も勧めた。
「今は風もないし……三十分ばかり其辺を逍遙(うろつ)いて来るのだから」中々翻らぬ。
「では私共もお供しませう!」雪子はいふ(。)(※6)
「いや! 午前(ひるまへ)廻つて来て疲れてるんだから……何滅多に迷児にはなりやしないよ」
「でも案じられますもの!」
「それよりか馳走を旨くして待つて居てくれ!」
「それもそうですわね!」力なく云つた。
 彼は鼠色の中折帽を被つて下りた。宿の主人の注意を聞いて、杖を携へて出た。後ろを振り返つて、雪子の視線と合つた時、二人は莞爾(につこり)した。かゝる所に渋い味があるかもしれぬ。無意識に凸凹の道を歩んだ。

(※1)原文ママ。「、」の誤植。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。「は」の誤植か。
(※5)原文の踊り字は「ぐ」。
(※6)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月8日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)