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あら浪 第三回 二人の男女

不木生

 東海道上り列車は、木曽川で夜の幕を脱いで驀(※1)(まつしぐら)に走つた。
 朝靄の中から遙かに五層の城が見えて、荘厳な金の鯱が、朝日に照らされた田面は緑色の稲の穂に埋まつて、所々に頬冠りの農夫が、打連立つて早稲を苅つて居た。
 中等室に乗つて居るは、茫然(ぼんやり)と窓外を眺めて居た二人の男女ばかりである(。)(※2)
「名古屋! 名古屋!」声は威勢がよい。
 乗る人は可なり多く、騒々しさは格別である。街路には塵が立つのが見えた。
 中等室の前を一人の警官が二人の罪人を連れて徘徊した。編笠で顔を隠し赤い衣服(きもの)の尻を端折つて、左の襟に二千何百の番号が読まれた。二人は顔を見合せた。
「煙草に燐寸新聞!」「牛乳々々!」と怒鳴る(。)(※3)「オイ朝日はないか?」「煙草ぢやない新聞だよ」男は渋茶色の中折帽に金縁の眼鏡を高い鼻の上に支へ、二重外套(まんと)を着た三十前後の姿、女は二十歳ばかり、抜ける程美しく、新御召の棒縞の袷に、桔梗鼠の紋附羽織、厚織の帯に紋縮緬の帯上といふ服装(なり)、何れも縮む様に腰掛けたが、話し振はどうしても夫婦である。
 中等室へは憲兵が一人、芸妓(げいしや)らしい女が一人、無関係に乗つた。憲兵がキロキロと眺める時、女は顔を反らして居た。
 汽笛は異様に鳴つて、汽車は動いた(。)(※4)市街(まち)の煙突から投げ出される煙は、活気の色を帯びた。東本願寺が邪曲を嘲る様につゝ(※5)立つて居た。長蛇は尾三(びざん)の平原を走つた。
 紳士は女に肱を以て注意を与へた。新聞の三面を指(ゆびさ)して、
「出て居るよ!」軽く云つた。暫くして女は微かに笑つた、忽ち憲兵の方を見た。此時憲兵は窓外の秋色に見惚れて居た。差向の女は小冊子に眼を触れて居た。
 岡崎で憲兵は下車して、一人の紳士が一個の大なる鞄を下げて入つて来た(。)(※6)其上の名刺を見た時、男は「馬鹿な」と叫んだ。
 名刺の字は三号活字で「近藤」と読まれた。
 豊橋で芸者風の女は降りた。代りに洋服を着た男が乗込んだ。窓の前には見送りの若い書生が立つて居た。
行李(※7)はよかつたかな?」と首を出していふ。
「エゝ慥かに……随分身体を大切にして下さい」
「有難う達者でやるよ、君も無異(まめ)で勉強したまへ! 帰つたら御母さんに宜敷う、そして花さん(※8)にも」
 汽車が出て、見送人が見えなくなつた時洋服の襟を正して二人の前に腰を下した。女は其男の顔を見詰めた。正真な日の光は車窓から横顔に当つた。窓の戸を閉めた女の腕は細かつた。
 二人は耳を寄せて頻りに秘々(ひそひそ)と話して居た。
 静岡で正午(ひる)になつた。男は女に会釈して下車した。女は男の姿が見えなくなる迄、悲し相に見送つて居た。
 二十銭で弁当を買つた。上の紙を見て女は「マア」といつた。其処には京城屋(※9)と書いてあつた。
 富士や湘南の景も女の眼には、映らなかつたらしい、きりゝゝ(※10)と鋭い様な眼附であつた。けれども稀な美人である。横浜で汽船の笛を聞いて陶然(うつとり)とした様子であつた。
 新橋へ着いた時、秋の日はとつぷり(※11)暮れて居た。
 女は紫唐縮緬(むらさきメリンス)の風呂敷包と、絹張の洋傘とを持つて、電燈に顔を俯向けて、旅客の間を駆ける様にくゞり分けて、外へ出た。
 上野行電車に飛乗つた。
 上野停車場で下車した時は真の闇であつた。振鈴の音が、鋭く身に沁みた。星は寒さうに輝いた。待合ふ人は騒々しかつた。
 日光、塩原の事が際立つて書いてあつた。
 女はそれを長く眺めて居た。

(※1)原文一文字判読不能。
(※2)(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)原文傍点。
(※6)原文句読点なし。
(※7)(※8)(※9)原文傍点。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文傍点。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月6日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)