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あら浪 第二回 無惨な最後

不木生

 旅僧は重ねて尋ねた。
「して須磨は何方(どこ)へ持つて行くのぢや?」
「ヘイ……」と云つて翁は懐の中へ手を入れて、小さな紙片(かみきれ)を捜し出した。
「これで、停車場の傍で聞けばわかると仰(おほせ)になつたので」かう云つて翁は旅僧の傍へ来て、右手に挟んだ紙片(かみきれ)を手渡した。
 旅僧は受取つて、瞬(またたき)して読むだ。文字は鉛筆で、小さき半紙の片(きれ)の中央(まんなか)に「須磨警察署行」と撲り書がしてあつた。
「警察署へ持つて行くのだな?」顔を見上げて聞かせた。
「へ? あの警察へ?」驚いて叫んだ。
「如何にも左様(さう)書いてある。」
「そうですか」と力なく言つて「それでは早速急ぎませうぞ」
 翁は急いで用意をした。薄黒い手拭も再び頭に捲かれた。重さうに轅(ながえ)を脇に掻い込んだ。
「それでは御免なすつて。」
「もうはや出懸けるのか、左様(さよ)なら。」後は小声で称名を唱へた。
 秋の日は翁の黒き頬を照した。単調な波の音が聞えた。旅僧は身を起した。汽車がごーつ(※1)と通つた。
 車を曳いた翁が須磨警察署へ来た時は、彼此日は暮れて、須磨寺の鐘が(※2)厭に身に沁む頃であつた。警察署からは不審の面持で二人の巡査が出て来た(。)(※3)翁に次第を尋ねると、たゞ持つて行けば解るとばかり一向判然(はつきり)せなかつた。而も何とも想像が附かなかつた。固(もと)より差出人の名は書かれて居なかつた。そこで署員一同は行李を開ける事に決した。苧縄(をなは)をぷつゝり切つて、恭しく蓋を取つた。
 驚破(すはや)、警官を始め、翁はもとより、尻居に仆るゝもあつた。
 こはそも如何に! 中には三十あまりの男が、手拭で頸を締められた儘、仰向になつて、無惨な最後を遂げて居る。
 悽愴の気が四辺(あたり)を充満した。
 格子縞銘仙の袷に白縮緬の兵庫帯を整然(きちん)と結んで居た。手拭はまだ頸に捲いてあつた。眼は塞いで居るが、口から異様の液を吹き流して居た。泥酔したとき惨殺せられたのであらう(、)(※4)酒の香(にほひ)も交つて居た。死んでからまだ三日は経たぬらしい。官吏でなくば商人だ、髪は五分苅、面長で、色から見ても卑くない男だ。
 懐中にも莫大小(めりやす)の襯衣(しやつ)にも、何も無く、行李は極めて新らしかつた。
 由々しき大事!
 誰の犯罪か、誰の悪戯か、洒落でもあるまい。突出す場所にもよる。図々しき所業(しわざ)の内面には如何なる秘密が潜んで居るか、警察を嘲る為か、騒がす為か、又は行為を誇る為か、驚くよりも怪んだ、怪しむよりも呆れた、呆るるよりも恐れた。「誰が翁にこれを誂らへたか。」一同は口を揃えて翁に尋ねた(。)(※5)
 翁は事の奇異(ふしぎ)なると、恐怖(おそろし)さに、わなわなと顫えて、為す所を知らなかつた、喘ぐ様に語る所に依ると(。)(※6)今朝まだ薄闇(ぐら)い頃、翁が例の如く明石の町へ入りかゝると、一人の男が、用事があるから一寸来て呉れないかと頼んだ、其男に従いて一町程行くと曲り角にこの行李が置いてあつた。これを須磨まで持つて行つて呉れと、一円紙幣(さつ)を一枚渡した、残金(あと)は先方で受取つて呉れ行先は此処に書いてあるから、と云つて、紙片(かみきれ)を与へた儘、姿が見えなくなつてしまつたといふのである。
 其男は、三十五六の背恰好で、色眼鏡を懸けて、誠に濃い口髭を生して、二重外套(まわし)を着て、鳥打帽を目深に被つて居たといふ其の外は、翁の口から何事も解らなかつた。
 破天荒だ! 斯様なことは嘗て見た事も聞いた事もない。一同は胆を潰した。
 署員はなほ精細に、翁の知る限を聞き糺した。同時に諸方に急報した。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。「、」の誤植。
(※3)(※4)(※5)原文句読点なし。
(※6)原文ママ。「、」の誤植。

底本:『京都日出新聞』明治44年3月5日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(最終更新:2007年2月26日)