『中日新聞』 尾張版 1月8日
蟹江町出身の小説家小酒井不木(一八九〇―一九二九年)にちなんだ「小酒井不木賞俳句・俳画コンテスト」(中日新聞社など後援)が開かれ、町民らでつくる実行委員会が作品を募集している。
句会の設立を呼び掛けるなど俳句に親しんだ郷土の文化人の功績を後世に語り継いでいこうと毎年開いている。
『書斎の憂愁』 山下武 日本古書通信社 1月15日発行
→ 初出:『横溝正史と「新青年」の作家たち』 世田谷文学館 3月30日発行
『小説新潮』 1月号
→ 『飲めば都』 北村薫 新潮社 2011(平成23)年5月20日発行
「小酒井か――」と、宙に指で書いて、「小酒井フボクという作家がいた」
「はあ」
「――はあって、お前、読んだことあるのか」
「ありません」
「フボクって、どう書くか分かるか」
「存じません」
相手は、ドナルドダックの嘴のようにぐっと唇を突き出し、
「―不能のフに、唐変木のボクだよお」
不木だ。
「はああ、なるほど」
「何がなるほどだ」
「感心したもので」
満更、嘘でもない。うまいことをいう、とは思った。
(中略)
「――でまあ、その――そのそのその、さっきの小酒井不木さんですが……」
「う?」
都さんは、ぐっと膝立ちの姿勢になって威圧する。
「なんで、フボクなんですか。変な名前じゃあないですか。何で、そんな名前つけたんです?」
「小酒井不木が、なぜ、《不木》というか」
「はい?」
都は、《誰、それ?》と首をかしげる。相手は、眉を寄せ、
「君がな――聞いたんだよ。小酒井不木という作家の、ペンネームの由来を」
「そうなんですか?」
「ああ、不可能の《不》は、《木》という文字の、頭が出ていない形だ」
よく分からない。銀髪氏は、宙に指で文字を書き説明する。
「なるほど……」
「最初は《不》から始まり、しかる後、頭を出すぞという――謙遜でもあり、また心意気をも示す。こういうものなんだな」
どう答えていいか分からない。取り敢えず都は、感心することにした。
「勉強になりました。――わたくしも、まだまだ頭を出せない駆け出しです。よろしく、ご指導、お願いいたしますっ」
と、あくまでもさわやかである。
『読書がたのしくなるニッポンの文学 ようこそ、冒険の国へ!』 くもん出版 2月28日発行
医学を学んだ作者は、三十一歳のとき、科学読み物やエッセイ、翻訳などの文章を書き始めます。そこに起こったのが、一九二三年九月一日の関東大震災でした。おりから病気療養中の作者は、病状悪化のため、翌月、名古屋に家を新築し、転居します。現代でもそうですが、地震などの天災は、被災した人々の心と生活に大きな影響をおよぼします。作者の震災体験は、本作にも影響をおよぼしているかもしれません。本書に収録したのは、「少年科学探偵」シリーズ第四作の全文と、第一作「紅色ダイヤ」の冒頭部分です。
『読書がたのしくなるニッポンの文学 ようこそ、冒険の国へ!』 くもん出版 2月28日発行
『頭蓋骨の秘密』(小酒井不木) 主人公の塚原俊夫少年は、警察も解けない難事件の数々を、柔道は強いが謎には弱いボディガード役の「兄さん」とともに、次々と解決していきます。まんがの『名探偵コナン』(青山剛昌)は、高校生が小学生にされるという設定ですが、俊夫君は正真正銘の十二歳。いわゆる天才ですが、しっかり新聞を読んで社会情勢をつかみ、新しい知識を取り入れ、実験や観察をしながら推理を組み立てていきます。俊夫君の出すヒントから、いっしょに謎解きを楽しんで下さい。
冒険小説は読書の原点だと思います。楽しく、想像力が刺激され、知恵や勇気を学び、生き方を考えさせてくれます。そんな魅力を持つ冒険小説の系譜は、脈々とつづいています。ここで取り上げた作者たちに影響をあたえたフランスの作家、ジュール・ヴェルヌの『海底二万リーグ(マイル)』や『二年間の休暇』、イギリスの作家、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズなども読んでみてください。この本に収めた作者の他の作品、『火星兵団』(海野十三)や『月世界競争探検』(押川春浪)、また、俊夫少年が活躍する小酒井不木の「少年科学探偵」シリーズなども、現代に影響をあたえていると思います。
『ようこそ、冒険の国へ! ――を、もっともっとオモシロク読むために――』
『読書がたのしくなるニッポンの文学 ようこそ、冒険の国へ!』付録 くもん出版 2月28日発行
『少年科学探偵』の序の中で、「現代は科学の世の中でありまして、科学知識がなくては、人は一日もたのしく暮らすことができません。しかし、科学知識を得るには、何よりも科学の面白さを知ってもらうために、私はこの小説を書いたのであります」と作品を書く動機を語っています。「探偵小説は、読む小説であると同時に読んで考える小説」であり、「私は私の小説を読まれる少年諸君に、ものごとを考える習慣をつけてもらいたい」とも述べています。科学者であった不木は、科学の重要性を早くから認識し、子どものときから科学を楽しく学び、ものごとを考える習慣を身につけてほしいと願ったのです。確かにこの作品の主人公は、手がかりを元に一生懸命考えます。科学の知識を使って解ける謎も多いので、面白く知識が学べます。不木は優れた教育者でもあったのです。
『中日新聞』 尾張版 3月2日
(前略)最優秀の「不木大賞」の俳句は蟹江町の林千代子さんの「秋落暉不木の句碑も子等も染め」が選ばれた。ねんげ句会同人の水谷三佐子さんによる講演もあり、出席者は不木の業績や俳句の魅力などの話に耳を傾けた。
『愛知県立大学文学部論集(国文学科編)』 第57号 3月
【LINK】
科学では充分に説明されていないと慎重に留保を付けつつ、しかし古来語り継がれてきた興味深いエピソードを全否定しないところに物語を紡ぐ余地を残すという不木の姿勢を継承しながら、そこに書簡体(一人称独白体)という語りの工夫を導入することにより、ごく短い短篇にしか仕立てなかった不木とは対照的に、まとまった長さと奥行きを持った中篇小説にまで仕立て上げたのが、夢野久作であった。
レズリー・A・ゼブロウィッツは《ある人類学者が指摘しているように、こどもが親族のだれに似ているかを確認したがるのは、われわれの生物学的遺伝と、たしかにわが子であることを見届けたいという男たちの関心を反映している。》と記すが、これは煎じ詰めれば、例えば、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(一八八四)が指摘したような、《子供たちの唯一の確実な親としての母のこの本源的な地位》、《子の母が誰であるかはわかるが、父が誰であるかはわからない》という家族論の根源的問題に帰着しよう。妻の遺品から妻の不貞を確信した「夢見る女」、嫉妬深い夫に不義の事実を隠すために必死に〈視覚的胎教〉を試みた妻が語る「赦罪」、夫の浮気へのいささか手の込んだ復讐として、西洋人との不義から生まれる子に、〈視覚的胎教〉によって鬼の風貌を含意させようとする「印象」。これらの作品はこの根源的問題と無関係ではない。
妻の不義の疑いが濃厚であるにも関わらず、それを否認しようとした時、「アンドレアス・ターマイアーの遺書」におけるように夫は〈狂人〉となって〈視覚的胎教〉の存在に縋り付く。母の不義について同様のことをすれば、「押絵の奇蹟」のトシ子となる。
『第六回「小酒井不木賞」俳句・俳画 コンテスト 俳句抄 折々草句集』 小酒井不木俳句コンテスト実行委員会 4月19日発行
『第六回「小酒井不木賞」俳句・俳画 コンテスト 俳句抄 折々草句集』 小酒井不木俳句コンテスト実行委員会 4月19日発行
『中日新聞』 5月18日(火曜日)
蟹江町出身の推理小説家で、俳人でもあった小酒井不木(一八九〇〜一九二九年)の生誕百二十周年を記念し、同町図書館の庭のフェンスに、小酒井の功績をたたえる俳句の木札が取り付けられた。
俳句愛好家らでつくる「かにえ不木の会」が、町教育委員会と協力して設置。
----------
小酒井にちなんだ「俳句の道」はこれで、町内に五カ所。
『〈東海〉を読む 近代空間と文学』 日本近代文学会東海支部編 風媒社 6月30日発行
小酒井不木は蟹江町の生まれだが、晩年は名古屋市昭和区鶴舞四の五の一三に住んだ。大正一二年一〇月から急性肺炎のためわずか四〇歳で世を去る昭和四年四月一日まで、不木はこの家で『恋愛曲線』『死の接吻』『疑問の黒枠』『人工心臓』など彼の探偵小説のすべてを書いた。不木は小説のほかに『犯罪文学研究』など権田萬治が不朽の価値を持つ独創的研究と呼ぶ随筆を書き、豊かな語学力を駆使して、ドゥーゼの『夜の冒険』チェスタートン『孔雀の樹』をはじめとする翻訳も残している。
不木は名古屋を舞台にした作品を多く書いている。最大の長編『疑問の黒枠』がそうであるし、短編もほとんどがそうである。『大雷雨夜の殺人』も大須あたりを中心として昭和初頭の名古屋の街が浮かび上がってくる。
『名古屋近代文学史研究』 第169号 9月10日発行
『探偵小説の風景 トラフィック・コレクション(下)』 ミステリー文学資料館・編 光文社 9月20日発行
小酒井不木「新聞紙の包」(「苦楽」一九二六・六 改造社『小酒井不木全集 第十三巻』収録)の舞台は、横浜から神戸へと向かう船上である。ポケットにある犯罪の証拠をなかなか海に投げ捨てられない青年の葛藤は、しずしずと海上を進む船との対比で、より読者に迫ってくる。
結核の闘病法でも知られた小酒井不木(一八九〇−一九二九)は、一九一七年、衛生研究のために欧米に留学している。病を得て帰国してから文筆活動を始め、評論や研究、そして創作にと、黎明期の日本の探偵小説界で貢献した。欧州行きの汽船に納涼がてら神戸まで乗船する人の多さやその様子などは、やはり実見したことなのだろうか、雰囲気がよく伝わってくる。
『中日新聞』 10月16日(金曜日)
蟹江町出身の作家で俳人でもあった小酒井不木の生誕百二十周年を記念し「かにえ不木の会」が、佐屋川創郷公園内の散歩道沿いに木製の句碑三十点を立てた。地元の子どもらの俳句をつづり、小酒井の句碑四点も一緒に並べている。「俳句の道」と名付け、郷土が生んだ偉人の功績をしのぶ。
『名古屋近代文学史研究』 第170号 12月10日発行
『日本SF精神史――幕末・明治から戦後まで』 長山靖生 河出書房新社 12月30日発行
ところで、乱歩のデビューに当たっては、小酒井不木がこれを強く推薦した。東北帝国大学医学部教授だった不木は、犯罪学や和洋の異端文献に詳しく、初期の「新青年」に多くのエッセイを書いていた。編集長の雨村は、乱歩作品の完成度が高いことから、海外作品の盗用を心配して不木に読んでもらった。不木はこれがオリジナルであることを確認すると同時に、乱歩の才能に驚愕した。それまで不木は、日本はまだ創作探偵小説が本格的に生まれる土壌はなく、海外の優れた作品を紹介する時期だと考えていたが、乱歩の出現で、その認識を改め、やがて自身も探偵小説を書きはじめる。こうして探偵小説には、新しい気運が生まれた。
この時期、探偵小説には「純粋探偵小説(本格かつ純文学的で少数の理解者を読者対象とする)」か「大衆的探偵小説」か、という路線問題も生じていた。当時は文壇全体にとっても、純文学か大衆文学かという問題があった。大正教養主義によって、知的選良の純文学指向は強まったが、その一方でデモクラシー、社会主義の理念にしたがえば、大衆との連帯(平準化)は文学にも必要不可欠なはずだった。後者を指向した小酒井不木は、多くの読者を獲得して、その趣味を向上させることが、探偵小説の基盤を固めるために必要だと説いた。不木に兄事していた乱歩も、これにある程度同調した。大正十四(一九二五)年四月には乱歩、不木、甲賀三郎、水谷準、横溝正史、西田政治らが集まり「探偵趣味の会」が生まれ、同年八月には機関誌「探偵趣味」が創刊された。また同年十月、長谷川伸、白井喬二、直木三十五らが大衆文芸運動のためのグループ「二十一日会」を組織し、機関誌「大衆文芸」を発行したが、探偵小説関係者では小酒井不木と国枝史郎が創設時から参加、ややあって乱歩も、不木に誘われて加盟した。
不木は「大衆文芸」創刊号(大正十五年一月)に「人工心臓」を発表し、「新青年」大正十五年一月号に「恋愛曲線」を載せた。これらはいずれも、科学としての医学の進歩が人間の幸福に結びつかず、むしろ人間感情との齟齬から悲劇が生まれる様子を描いた作品だった。
ところで小酒井不木は、アメリカで「アメージング・ストーリーズ」が創刊(一九二六)されるや、早速これを取り寄せている。そして日本でもSF専門誌を発行する計画を、当時、「科学画報」「子供の科学」などの発行人を務めていた原田三夫と共に練った。不木と原田は、中学以来の友人だった。不木は原田から海野十三という新人のことを教えられ、新雑誌が創刊できたら、彼を参加させることを考えていた。しかしこの計画は、昭和四(一九二九)年四月に不木が亡くなったために立ち消えとなってしまった。もしこの時、SF専門誌が創刊されていたら、日本のSF史はまったく違ったものとなっていただろう。