『近代日本奇想小説史』 横田順彌 ピラールプレス 1月20日発行
水谷準の「探偵小説研究」では、探偵小説は当初、大衆小説とはいえなかった。そしてE・A・ポーと、コナン・ドイルが産みの親と、育ての親だとしている。(中略)日本人は、あまり詮索するのが好きではない国民だったこともあって、漸く創作探偵小説が認められだしたのが大正十(一九二一)年あたり、その後出現した作家として江戸川乱歩、小酒井不木、甲賀三郎などの名をあげている。それ以前にも探偵小説作家は、何人か出現したが、全て黙殺されたとも記す。
蟹江町歴史民俗資料館企画展示室 2月8日〜3月20日
『江戸川乱歩に愛をこめて』 編者:ミステリー文学資料館 光文社 2月20日初版1刷発行
続いて共作とはいえ乱歩自身の作品があるのは、乱歩トリビュートにならないと思われかねないが、共作者の小酒井不木(一八九〇―一九二九)は医学者で探偵作家であり、乱歩の才能を愛でて弟のように可愛がった、まさに“江戸川乱歩に愛をこめ”た最初の著名人であった。眼高手低意識のあまり筆を折りたがる乱歩をなだめすかし、合作組合「耽綺社」や二人だけでの合作にも誘ったが、乱歩・不木合作名義で発表された掌編には「ラムール」と本編「屍を」とがあり、ともに一九二八年一月、それぞれ雑誌「騒人」「探偵趣味」に掲載された。「ラムール」のほうは随筆集『悪人志願』(一九二九年。乱全第24巻)に、「この一篇は名古屋の小酒井さんのお宅で、前半を私が後半を小酒井さんが、その場で書き上げた合作である。思出のよすがにのせておく」と注記して収録、随筆扱いながら平凡社版江戸川乱歩全集にも収められ、さらに晩年になって乱歩単独で「指」(六〇年。乱全第22巻所収)と題して改作されたのが少年物以外の最後の創作となった。
蟹江中央公民館分館大会議室 3月6日
『年報』 第三十一冊 蟹江町歴史民俗資料館 3月発行
購入資料名
・小酒井不木絵・書合作 一幅
なお、平成二十年五月二十日に不木のご遺族である小酒井美智子様(長男令室)・治様(孫)より寄贈していただいた江戸川乱歩揮毫の不木碑を、平成二十一年十月三十日に資料館旧玄関前に設置し同日より公開することとなった。この碑は、不木の三十三回忌の際に八事霊園にある不木の墓の隣に江戸川乱歩が建立したものである。
『飲めば都』 北村薫 新潮社 5月20日発行
→ 初出:「小説新潮」 2009(平成21)年1月号
『名古屋近代文学史研究』 第176号 6月10日発行
『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』 東雅夫 学習研究社 7月20日発行
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
『怪人二十面相』の連載第一回はこのような迫力満点の展開で、当時の少年読者には大受けだった。それまでの少年雑誌に載った探偵ものといえば、小酒井不木の『少年科学探偵』(一九二六)、野村胡堂『地底の都』(一九三二)、森下雨村の『謎の暗号』(一九三三)などに代表されるような、初歩的な科学捜査の応用か、大時代な伝奇仕立てを背景に、怪盗団、スパイ団を追撃するという安易な趣向の繰り返しで、そもそも少年が探偵役をつとめること自体、そらぞらしい印象を免れなかった。(後略)
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
乱歩が入っていったのは、およそ以上のような環境だったのだが、乱歩自身はどれほど意識していたか。大衆児童文学全般には無関心で、せいぜい探偵ものの先行作である小酒井不木や森下雨村の諸作を覗いてみる程度だったと思われる。
少年小説の世界では、探偵ものは冒険ものに一歩遅れて発達した。(中略)当時の主流はあくまで押川春浪や小原柳巷のような冒険小説で、ストーリーにちょっぴり探偵味が加えられる場合もあるという程度だったが、大正初期になると創刊の「少年倶楽部」や「少女の友」などに三津木春影、森下雨村、小酒井不木らの探偵小説がポツポツ掲載されはじめ、好評を博したのを契機に、探偵ものは徐々に独立のジャンルとして注目されるようになった。
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
(前略)実際、乱歩は探偵小説という特異な分野から頭角を現したこともあり、出発点において通常の作家なら行ったであろう同人活動の経験もなかったので、デビュー後も水谷準、森下雨村、横溝正史、海野十三などの「新青年」系作家や、小酒井不木、国枝史郎などの耽綺社系の作家、編集者を除けば、それほど交友圏は広がらなかったようである。
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
ほとんど同時期の一九三一年八月、乱歩が大下宇陀児、甲賀三郎、小酒井不木らとともに春陽堂版『明治大正昭和文学全集』の第五十六巻に編入されていることにも注目したい。この全集には白井喬二ほか大衆作家の巻が六巻ほど含まれているが、いずれにせよ純文学中心の全集の中に、探偵小説が割り当てられたことは、その独自性と可能性を認められ、文学史全体の中に位置づけられようとしていたことを意味する。(後略)
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
(前略)この当時の乱歩が既成の作家からの評価を気にし、拘泥していたことは想像以上で、たとえば「読売新聞」(一九二五年八月三十一日)の「よみもの文芸月曜付録」欄に載った国枝史郎の「日本探偵小説寸評」のように納得できない場合は、真正面から反論を試みている。
国枝は小酒井不木の創作をあまり評価していない。その不木が『二銭銅貨』に讃辞を呈したのも、二重トリックに「過大に引っ掛かったため」で、それによって乱歩が斯界の第一人者に押し上げられてしまったのは「多幸」であると皮肉っている。(中略)
いずれにせよ、この国枝評にカチンと来た乱歩は、約二週間後の九月十三日付の同紙に「探偵小説寸評を読む」と題する反論を行った。冒頭、「探偵小説も斯く問題にされるに至ったかと思うと一寸愉快だ」と振った上で小酒井への不当評価を難じ、「過大に引っ掛かった」という言葉づかいは不愉快だとする。(後略)
『乱歩彷徨――なぜ読み継がれるのか』 紀田順一郎 春風社 2011年11月3日初版発行
◎大正十三年(一九二四)三十歳
(中略)
十一月、大阪毎日新聞社を退社し、作家専業を決意。「心理試験」原稿を小酒井不木に見せ、作家専業が可能か判断を乞うた結果のこと。
◎大正十四年(一九二五)三十一歳
一月、名古屋の小酒井不木を訪問。続いて上京し東京で森下雨村や宇野浩二を訪問。
◎昭和二年(一九二七)三十三歳
(中略)
十一月、小酒井不木、国枝史郎、長谷川伸、土師清二と大衆文芸合作組合「耽綺社」結成。
◎昭和四年(一九二九)三十五歳
四月、小酒井不木死去。