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不木先生のこと

岡戸武平

 小酒井不木先生は、本名を光次、不木と号した。明治二十三年十月八日海部郡蟹江町に生れた。愛知一中日比野校長のすゝめにより、家人に内証で三高を受けたところ、入学をゆるされたので三高に入り、ついで東大医科に入り大正三年卒業した。大正六年十二月東北大学助教授に命ぜられると同時に、留学を命ぜられたので米・英・仏に留学、痾を得て大正九年十一月帰朝、その年の十二月東北大学の教授に任ぜられたものゝ宿痾のため、遂に一度も教壇に立つことなしに終つた。大正十三年退職後は専ら探偵小説並に随筆をものし、わが国の探偵小説界にルネツサンス運動を起した。即ち、従来の探偵小説は黒岩涙香流の翻案ものであつたのを、純創作によるべきことを説き(、)(※1)自らも筆をとり江戸川乱歩氏をして「二銭銅貨」を書かしめる機運をつくつたのである。とくに新青年に連載された「疑問の黒枠」は、わが国長篇探偵小説の第一作ともいうべきものである。昭和四年四月一日名古屋市昭和区桜井町一丁目八の自宅に於て死去。享年四十。同年五月より改造社発行にて「小酒井不木全集」十七巻が出された。その編さんを江戸川乱歩氏の推薦によつて私がやつた。こゝに挿入した短冊は、仕事のひまにとくに私が乞うて揮毫してもらつたもので、画賛の入つているのは、おそらくこれ一枚だけではないかと思つている。
「先生、絵をかいて俳句の賛をして下さい」
といつたら、
「よし」
といつて、すぐぶどうの絵をかいて「いつとんで来たか机に黄の一葉」とすらゝゝ(※2)とかゝれた。しかし、この句は石田元季先生の撰になる「不木句集」のなかには入つていない。
「不木」の印は竹材で、 自刻のもの。もつとも印は病中のつれづれにほとんど御自分で彫られたもので、こゝに掲出した印は全部自刻のもの。これはこのとき私がいたずら半分に、先生の印箱から短冊におしたものである。
 句集は死後間もなく出されたもので、石田元季先生の跋文に、
「故人の句稿手控などからこの二百十句を抄録し、大体時候天文地理人事動物植物の順に序列いたしました。云々。巻末の二十六短句も、故人の手録に拠り、故人が時々木下杢太郎氏等の諸家と共に試みられた連句の面影を偲び、故人独特の異彩を(※3)ふべきものとして附載いたしました。
 昭和四年五月二十日 石田元季」
とありますように、当時石田先生を中心に小酒井不木、木下杢太郎(当時愛知医専教授)那須茂竹、松波寅吉の諸氏と連句の会をもつていられた。時に風流句で催されたこともあつた。
 先生の短冊は、自作劇公演(喜多村緑郎氏などで)のとき、入場者に賞品として出されたこともあつて、わりあい沢山流布されている。また木村晴三画伯(愛知一中同窓)と組んで展覧会などもされたことがあるので、今でも持つている人は相当あると思う。もつとも戦災で焼失した数も夥しいことであるし、すでに亡くなつてから二十五年になるのだから(、)(※4)郷土の人はとくに先生の短冊を愛してほしいと思うものである。(作家)

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文句読点なし。

底本:『たんざく』第1号(1954(昭和29)年9月10日発行)

(公開:2017年11月3日 最終更新:2017年11月3日)