去年の秋から冬にかけて、僕は東北の故郷に遊んでゐた。東北は寂しいところだ。秋は湖川に釣りをたれたり、冬は炉辺で地酒をなめながら降りつもる雪の音を聴いたりする外に、変つた楽しみもなく、しきりに東京の悪友を恋ひ慕つてゐるとき、小酒井不木氏から近著「恋愛曲線」を一部贈られた。僕は無聊の最中に友達が飛びこんで来たやうな気がして、何ともいへない懐かしさを覚えた。そして郡部の親戚をたづねる途中の、あの旧式なストーヴをカンゝゝ(※1)焚いてゐる汽車の中や、例の炉辺で、静かにかの海老茶色の本をふところから取りだしては読み耽つたものだ。その読後感といつたやうなものを漫然とこゝに書きつけてみよう。
「おい、印象(※2)を読んだか? まさに日本のルヴエルだね。」さういつて森下雨村氏が、得意のときにやる彼れ独特のくせ(※3)でポンと僕の手の甲を叩いたのは、たしか小酒井氏の「印象」を掲載した「新青年」が僕達の手許へ送られて間もない時であつた。
「いゝもんだね。」と僕は答へた。「あの作を讃めなければうそ(※4)だ。僕はあれを読んで『女の心』といふ文章が書きたくなつたよ。」
そのときのことを思ひだして、今度の集を手にすると真先に「印象」を読みかへしてみたが、感銘は依然として変らない。やはりいい作は幾度読んでもいゝに変らぬ。
短いものゝうちでは、この「印象」の深刻さと、「初往診」の、溢るゝばかりの人間味と「桐の花」の軽快で晴れやかな味ひが限りなくなつかしい。この三篇は、趣がそれゞゝ(※5)異つてゐながら、手法の明るく瀟洒たる点において共通してゐるところがある。いづれも僕の好きなものだ。
「桐の花」の終りの方の「やがて、太い幹が揺れて桐の花がはらゝゝ(※6)と散りました。」何んとあの作にふさはしい結句ではないか。春の匂ひがいつまでも仄めいてゐるやうな気がする。従つてあとの二行は削つて戴きたい――あのいゝ余韻をスポイルしないために。
「手術」がはじめて発表された当時、その取扱つた事象が残虐だとかきたない(※7)とかいふことで大分方々から攻撃されるやうだが、そんなことは問題でない。僕は初め読んだときも残虐とかきたない(※8)といふ感じは一向に起らなんだ。多分、発狂してあの血だらけの塊りを呑下さねばならぬほど突きつめたT先生の責任観念が強く頭へひゞいたせいだらう。それに、著者の狙ひどころは決してあの最後のシヨキング(※9)な場面のみではあるまい。T先生は可憫さうに、未婚婦人の姙娠を子宮繊維腫と誤診したばかりでなく、それに子宮剔出手術を施し多数の講習生に対して臨床講義をやることになつた。平生極めて慎重なT先生がほんの一寸した錯誤からさう信じきつてしまつて、あの塊りが胎児であることを発見する瞬間までも確信をもつて熱心にメスを揮つてゐた。そこに戦慄すべき運命の凄さがあるのだ。
一体、作家が何を書いたつていゝではないか。それは絶対に作家の自由であるべきだ。真面目な態度で真実な欲求から書いたとすれば一向差支があるまい。それを或る方面でどう見るかといふことはおのづから別問題に属する。
小酒井氏は科学者であるが、一方に、超自然的な、運命といふやうなものを強く感じてゐるにちがひないと思ふ。その点において氏は科学者にも似合はず、いつまでも尊い童心を失はずにゐる人らしい。だからミステリアスな話を書いても、何処かその凄さが読者に迫るところがある。この「手術」をはじめとして、「猫と村正」「メヂユーサの首」「肉腫」などはそれだ。
「暴風雨の夜」を読んだときに思つたことだが、あの読者を陰鬱に緊張させてじりゝゝ(※10)と引廻はしてゆくところは、不思議にもウイルキ・カリンズの味にそつくりだ。
後の方の「呪はれの家」と、「謎の咬傷」と、「愚人の毒」は、分量からいふと中篇をなしてゐる本格もので、三篇とも本格ものゝ生命ともいふべき筋の運びがほんとうによく手に入つてゐる。
呪はれの家(※11)は、体質が急激に変つて男性から女性になつた男とその妹の聾と或る前科者との三角恋愛から、前科者がその聾娘を殺害して隠れてゐるところを、名探偵霧原警部が嗅ぎだして引捕へ、故バーンズ探偵の考案したThird Degree(三等訊問法)以上だと自慢にしてゐる彼れ独特の「特等訊問法」によつて実を吐かせるといふ変つた事件を取扱つたもの。謎の咬傷(※12)は、婦人の頭髪を蒐集するフイチシストをば、その被害者である或る婦人の良人が、妻の自殺後に復讐的に殺した事件で、やはり霧原警部の「特等訊問法」の話。但し加害者が死人の歯を用ひたのは少し無理が過ぎたと思ふ。愚人の毒(※13)は、或る医師が恋敵である男を罪に陥す目的で、自分の患者にしてその男の母親なる未亡人に毒を盛り、死亡診断書には亜砒酸中毒と認めたが、解剖の結果、患者はその毒薬を服まないで、却つてマラリヤのために心臓が衰弱して斃れたといふことがわかつた。この事件について検事が右の医師を糺問してつひに追ひ落すといふ話だが、これは全然小酒井氏畑のものだけに、検事の訊問ぶりが如何にも周到適切で、じわじわと迫撃する調子なんか何ともいへない巧さだ。以上三篇の本格的探偵小説は、いづれも息を吐かせずに読ませるもので、大変に面白かつた。
僕は今度の「恋愛曲線」を読んで、はなはだ遅れ馳せながら、この著者がストーリ・テラーとして優れた技巧をもつてゐることゝ、その心の世界が案外に広いことを知つて、一寸驚いた。
著者の学殖と、殆んど無限にさへ見える材料の豊富さを僕は羨む。そしていつも真摯なその態度を尊敬する。たゞ憾むらくは、どうかすると、講壇のにほひが作の方に洗練されないでそのまゝ残つてゐるやうな場合も往々にして見うけることである。なほ巻頭の「恋愛曲線」については、曽て新青年のマイクロに書いた僕の考へがまだ変つてゐないから、こゝには省略します。妄言多罪。
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)(※3)(※4)原文圏点。
(※5)原文の踊り字は「ぐ」。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)原文圏点。
(※9)原文ママ。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)(※12)(※13)原文圏点。
底本:『探偵趣味』昭和2年4月号
(リニューアル公開:2017年3月9日 最終更新:2017年3月9日)