インデックスに戻る

(大正十五年度 探偵小説壇の総決算) 探偵文壇鳥瞰

國枝史郎

(一)

 創作探偵小説は本年度に至つて活気を呈し、読物文芸的大方の雑誌は競つて夫れを載せたやうです。『新青年』や『探偵文芸』や、乃至は『探偵趣味』などは、それの専門の雑誌だけに、創作探偵小説を、満載したのは当然としても『苦楽』『現代』『サンデー毎日』『大衆文芸』『講談倶楽部』これらの雑誌が多くの頁を、そのために裂いたといふことは、可成り目立つた傾向でした。さて又一方著書の方から云へば、『創作探偵小説選集』をはじめ、『心理試験』『屋根裏の散歩者』『湖畔亭事件』(以上三篇江戸川氏著)『琥珀のパイプ』(甲賀三郎氏著)が、春陽堂から出版され、『死の接吻』(小酒井不木氏著)『広告人形』(横溝正史氏著)『都会冒険』(牧逸馬氏著)等が、探偵名作叢書として、聚英閣から出版されました。尚奎運社からは松本泰氏の著書『黄色い霧』が出版され、更に大阪方面からは、その種のパンフレツトが出版されました。さてどの作家が本年度に於て、最も多く働いたか、又何(ど)の作家が本年度に於て、最も佳作を発表したか? といふやうな番附をつくるのは、鳥渡(ちよつと)私には悩ましく、欲しないことでもありますから、さういふ事は一切抜き、私が眼を通した範囲に於て、作家とさうして作品との、寸感を述べることに致します。数多く作つたといふ点では、小酒井不木氏(※1)かも知れません。従つて随分とムラがありました。『恋愛曲線』『肉腫』『印象』『安死術』『愚人の毒』は佳作であり、わけても『恋愛曲線』は、氏の専門の医学的智識と、一味(み)甘い人情とが、渾然融和した傑作として、あらゆる探偵小説愛読者から、讃美された筈でございます。ところでちつとも不思議でない事には、所謂る実験室的作物の味が、多く加味されてゐればゐる程、氏の作はいつも面白く、その味ひの薄い時は、面白くない作になつて居ります。然るに氏に対して一二の評者が、実験室を出ろ出ろと、忠告めいたことを云つて居りますが、私としては反対に、氏よ、もつとゝゝゝ(※2)実験室へ、おこもりなさいと云ひ度いのであります。甲賀三郎氏(※3)もよく働きました。『ニツケルの文鎮』をはじめとし『勝者敗者』『死の技巧』『従兄の死』『古名刺奇譚』といふやうな作は、量に於ても質に於ても、立派な作でありました。併し所謂る惣太物のやうな、ユーモアを雑(まぢ)へた作品は、まだ試作中の為でもあらうが(、)(※4)純化してゐないといふ点で、遺憾乍ら私には戴けませんでした。その作風が本格的であり、内容が複雑だといふ点は、既に以前から定評ある所、改めて云ふにも及びますまい。隅から隅まで描かうとする、些かクドイ文章は、一考をわづらはしたいと思ひます。寡作を以て称されてゐた、江戸川亂歩氏(※5)も後半期に於て相当数多く発表しました。『闇に蠢く』『湖畔亭事件』この二長篇は実の所、全部通読して居りませんので、こゝでは寸感をはぶくとし『火星の運河』『踊る一寸法師』『お勢登場』『鏡地獄』などは皆通読致しました。急(いそ)がしく書いた『お勢登場』は、評される方も迷惑であらうし、評する私も遠慮をし、後の三篇は文字通り完璧の辞を以て埋(うづ)めてよい(※6)正に名作でありました。わけても最近作『鏡地獄』は、江戸川氏でなければ書けないもので、怪奇の美といふ此(この)四文字が、ピツタリ宛て嵌まるやうに思はれました。氏が是程怪奇の美に陶酔することが出来るなら、もう夫れだけで結構ぢやあないか、人生的で無いの社会的で無いのと、さういふ理想の書附を、氏に呈出してはたる(※7)のは、氏の純粋性を傷(そこな)ふものとして、止めなければ不可(いけ)ないと強情な私も、遂に棒を折つて了ひました(。)(※8)次に松本泰氏(※9)になると、自己経営の『探偵文芸』へ、『毒死』『指紋』『蝙蝠傘』『不思議な盗難』といふやうな、好箇の短篇を発表した以外、諸雑誌へも幾多の創作をかゝげ充分奮闘を致しました。あつかふ事件が劇情的で無く、文章が楚々としてゐる為に、氏の立場は損であると、いつぞや私は申しましたが、取り消さなければならないやうです。他の大方の作家の作が、劇情的であるために、却つて氏の作は清涼剤として、動かす可からざる独自の地位を、諸方面に占めたやうに思はれます。探偵小説の為めの探偵小説、さういふ境地から脱出し、人生的乃至人情的の方へ、進んで行きさうに見えるのが、私には愉快に堪へません。評論家平林初之輔氏(※10)は『予審調書』『犠牲者』『秘密』の三篇を、『新青年』誌上に発表しました。とりわけ此中(このうち)、『犠牲者』が一般の好評を博しましたが、これは当然といふ可きでせう。その描写には過多の形容詞があり、組立ても完全とは云へませんが、緊急な社会問題を含んでゐる点で、劃時代的の作であると、大声で叫んでもよささうです。似た意味に於て羽志主水氏(※11)の『監獄部屋』は勝れた作で、読後最も感銘深く幾時間か私は考へさせられました。横溝正史氏(※12)の作風は、機智縦横とでも、云ひませうか、軽快で思ひ付きがよくてモダーンです。『広告人形』『裏切る時計』『艶書御用心』『飾窓の中の恋人』みな其範疇へ這入ります。若々しいといふことも見遁(みのが)すことの出来ぬ特色です。さうして何んとなく同氏の作には――もし叱られたら謝罪するとして、軟派不良少年的の味ひが、加味されてゐるやうに思はれます。それが悪いといふのではなく、それが可いと云ひ度いのです。と云ふのはさういふ私なる者が、その中学生時代に於て、所謂硬派の不良少年として、桜の握太(にぎりぶと)のステツキをひつさげ、本郷通りを横行した、なつかしい経験があるからでもあります。

(二)

 多才なるは牧逸馬氏(※13)で、『テキサス無宿』的のあゝいふ作から、『藤吉捕物』的の髷物から、『短篇集』的の寸篇物、それから『百日紅』といふやうな作、など、随分本年は働きましたが、ドツシリした作品は見あたりませんでした。この中(うち)正当な探偵小説といへば、髷物の方に比較的多く『梅雨に咲く花』『槍祭夏夜話(やりまつりなつのよばなし)』『三つの足跡』など夫れであります。水谷準氏(※14)城昌幸氏(※15)とは前途多望といふ事を、最も私に約束して居ります。『蝋燭』『月光の部屋』『宝は動く』『ジヤヅ泥棒』『恋人を食べる話』は水谷準氏の作であり、『神ぞしろしめす』『都会の神秘』『七夜譚(ものがたり)』『毒二題』『蝋涙』等は城氏の作でございます。『蝋燭』は鋭くて凄気があり『神ぞしろしめす』は人情の機微を、いかにも手ギハよくあつかつて居りました。大下宇陀児氏(※16)も可なり働き『或るローマンス』『山野先生の死』『秘密結社』などを発表しました。いづれも同氏が得意とする学生物でありまして、温情的な作でした。学生物もよい加減にしろと、忠告した人もあつたやうですが、学生物を書くことによつて同氏の特色が発揮されるのなら、止める必要が無いどころか、もつと深くその方面へ掘り下げて行つて貰ひたいものです。山下利三郎氏(※17)の怠け者なる、『第一義』一篇しか、私の前に呈供してくれず、その感想を差し控へます。正木不如丘氏(※18)も活躍し『吹雪心中』『手を下さゞる殺人』『赤いレツテル』等を発表しました。『吹雪心中』や『赤いレツテル』は氏にしてはじめて書けるもの、とりわけ私には『吹雪心中』が興味深く思はれました。風景描写や人体描写になると、俄然同氏の文章は硯友社前派に返つて了ひまして、可成り酷い目に逢はされますが、これ等の作には比較的さういふ欠点はありませんでした。川田功氏(※19)に至つては、戦記物を書く傍(かたはら)に於て『酩酊』『偽刑事』『偶然の一致』『或る朝』などといふ作品を産み、その才筆を示してくれました。『或る朝』は健全ですがゝゝ(※20)しい作、文章に磨きがかゝつてゐたら、更によいものになつたことでせう。久山秀子氏(※21)の『チンピラ探偵』が映画になつたといふことは、同氏のためにも賀す可きであり、創作探偵小説界に執つても、悪い気持のしないことで、同慶といふ言葉を使ふ可きでせう。尚同氏には此他(このほか)に『娘を守る八人の婿』等々の作があつた筈です。本田緒生氏(※22)も精進を欠き、『街角の文字』『無題』その他、短いものしか書きませんでしたが、今や同氏はその文章に於て、革命期に立つて居りますので、却つて今後が期待されます。さて此他(このほか)純文壇の人乃至評論壇の人々の中で、探偵小説に手をかけた人が相当あつたやうに思はれます。『髭』の作者佐々木味津三氏(※23)『奇蹟を望む』の作者水守亀之助氏(※24)『死人の慾望』の作者片岡鐵平氏(※25)『山岡老人の犯罪』の作者岡田三郎氏(※26)『家常茶飯』の作者佐藤春夫氏(※27)『凶(わる)い日』の作者戸川貞雄氏(※28)『ラヂオの怪』の作者伊藤松雄氏(※29)『阿片と恋』の作者橋爪健氏(※30)『台北(たいほく)の夜』の作者廣津和郎氏(※31)『夢魔』の作者長田幹彦氏(※32)、――白井喬二氏(※33)に『唐草兄弟』岡本綺堂氏(※34)は『三つの声』その他、さうして長谷川伸氏(※35)に於いても、小手の利いた短い探偵小説を探偵趣味などへ書かれました。倉田啓明氏(※36)の『死刑執行人の死』は異色ある作でありました。南幸夫氏の『猫が知つてゐる』伊東憲氏(※36)の『或る大工の幻想』上野虎雄氏(※37)の『詩から散文へ』小牧近江氏(※38)の『赤屋敷異見』それゞゝ(※39)特色がありました。
 評論の方も可成り賑はひ、千葉亀雄氏(※40)馬場孤蝶氏(※41)前田河廣一郎氏(※42)梅原北明氏(※43)戸川貞雄氏(※44)藤井眞澄氏(※45)甲賀三郎氏(※46)平林初之輔氏(※47)佐藤春夫氏(※48)石上是介氏(※49)等が、直接に間接に意見を吐露され、刺戟して下されたやうに思はれます。
『新青年』誌上に連載した、『五階の窓』といふ連作も、相当人気を呼びましたが、その出来栄に到つては、精々の所六十五点ぐらゐ、威張れない作品に堕しました。江戸川亂歩氏(※50)森下雨村氏(※51)とが、探偵小説の骨法通り、真面目に真剣に書きましたのを、他の三氏が少しく奔放に、謂ふべくんばヨタを織り込んだため、百点たる可きこの作を、六十五点に下落させたやうです。
 翻訳方面は依然盛んではありましたが数年前に比べると、やゝ引潮とも思はれます。延原謙氏(※52)妹尾韶夫氏(※53)田中早苗氏(※54)をはじめとし、この方面に専心した、多くの翻訳家に対しては、感謝を捧げなければなりますまい。
 探偵趣味的読物も可成り本年は喜ばれたやうで、多くの雑誌が掲げました。稻垣紅毛氏(※55)小酒井不木氏(※56)小泉ハ之助氏(※57)南波巨山氏(※58)松谷蒼生氏(※59)高田義一郎氏(※60)前田誠孝氏(※61)古畑種基氏(※62)等々の人が、目立つた仕事を致しました。小泉氏の事実的探偵創作『眼』『腕』『梟』は有名な物で洛陽の紙価を高めた筈です。深見ヘンリー氏の随筆も面白く思はれました(。)(※63)
 平林たい子氏(※64)角田喜久雄氏(※65)高田義一郎氏(※66)橋本五郎氏(※67)谷君之介氏(※68)荒木十三郎氏(※69)(、)(※70)持田敏氏(※71)宇野春氏(※72)夢野久作氏(※73)小鹿進氏(※74)等の諸氏に就いても、一応言及すべきですが、これは甲賀三郎氏が、その『新進作家評』に於て、大方論ずると思ひますので、こゝでは特にはぶく(※75)ことにします。保篠龍緒氏(※76)村島歸之氏(※77)春日野緑氏(※78)に関しても云ふ可きことがありますが、後日に譲ることに致します。
 尚澤田撫松氏(※79)が週間朝日へ掲載した『足へ触つた女』を初め、法廷実録式物語も探偵小説的物語として興味ある物でしたし、土師清二氏(※80)の『白い手の靨』も特色ある探偵小説でした。大野木繁太郎氏(※81)に関しても言はねばならぬのですが矢張り後日に譲る事にしませう。

(※1)原文圏点。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文圏点。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文圏点。
(※6)句読点原文ママ。
(※7)原文圏点。
(※8)原文句読点なし。
(※9)(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)原文圏点。
(※20)原文の踊り字は「く」。
(※21)(※22)(※23)(※24)(※25)(※26)(※27)(※28)(※29)(※30)(※31)(※32)(※33)(※34)(※35)(※36)(※37)(※38)原文圏点。
(※39)原文の踊り字は「ぐ」。
(※40)(※41)(※42)(※43)(※44)(※45)(※46)(※47)(※48)(※49)(※50)(※51)(※52)(※53)(※54)(※55)(※56)(※57)(※58)(※59)(※60)(※61)(※62)原文圏点。
(※63)原文句読点なし。
(※64)(※65)(※66)(※67)(※68)(※69)(※70)原文圏点。
(※70)原文句読点なし。
(※71)(※72)(※73)(※74)(※75)(※76)(※77)(※78)(※79)原文圏点。

底本:『新青年』大正15年12月号

(公開:2017年12月22日 最終更新:2017年12月22日)