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大阪京都名古屋を歩いて

森下雨村

 この夏は大半を旅で暮した。八月の上旬から二週間ばかりは大阪と郷里で暮し、九月へ入つては、また京都、岐阜、名古屋と一週間ばかり旅をした。
 大阪では大毎の星野、平野、和氣君などに会ひ、平野君の紹介で大阪検事局の佐野学士にも会つて、いろゝゝ(※1)と面白い犯罪捜査談を承つた。それらはいづれ佐野氏が執筆して下さる筈であるから、楽しみにして待つてゐてもらひたい。大阪にはまだ沢山に会ひたい人があつた。古い友人や先輩も大分ゐるし、手紙の上で親しい誌友も少くない。井上爾郎君や、湯淺文春君、それから神戸の山本、荒木、中西一夫の諸君にも会ひたかつたが、何にしても気忙しい旅先のことで、お訪ねをする閑のなかつたのは残念であつた。
 新世界の方面へ行つて、通りかかりに港屋といふ書店へ立寄ると、そこの御主人が竹久夢二君の令弟で、大の新青年党とあり本誌の発展宜なるかなと嬉しくなつて大いに歓談したことであつた。事実、京都もさうであつたが、大阪、神戸に於ける新青年の売行きは、近来非常なもので十月増大号の如き一躍千五百部も部数が増した程である。知識階級の読者が多い故であることは勿論だが、書店の経営者の中にまで、河■君の如き新青年党があつて大いに宣伝に努力して下さる結果が、今日の好況を来したとも思はれる。
 さう云へば、京都大宮通寺の内上る面白屋書店の御主人三宮氏は、小生と同郷とあつて、これ亦大の新青年党で、新青年の発売については特に力を入れてゐると語られて天下知己ありと感奮した。三宮氏は小生の父と同年輩で、しかも十二の時に郷里を出られたといふのだから、自分が知らう筈がない。三宮氏が森下といふ苗字を記憶してゐられたさへ不思議な位である。他に用事さへなければ、手をとつて、郷里の噂など聞して上げたいと思つたことであつた。
 話は前後するが、五日間大阪滞在の色々な印象の中で、特に強く心に残つてゐるのは、一円均一の自動車と阪急食堂の料理の味である。自分の知人が、夜の十二時半に、日本橋の上を通る自動車の数を算へたら五分間に百四十八台通つた、その九分まで一円均一のタクシーであつたと話した。実際大阪の円タクは東京者の我々には何とも羨しい次第である。阪急の食堂で美味い飯を食つた序に書籍部を覗いて見ると、係りの西村氏がゐられて、何かと話があつたが、ここも知識階級の人の乗降が多いので、新青年は非常に売行きがよいとのことであつた。
 郷里の一週間は、小生得意の鰻釣りに日が暮れて、身体を陽に焦したといふだけのこと。
 帰京、十一月号の(※2)計画をたてて、また京都へ向ひ、比叡山へ上つたり、桃山に参拝したり、その間に山下利三郎君を訪問して、滞在数日、岐阜を経て、名古屋に着いたのが九月七日。何はあれ、早速小酒井氏に電話を掛ると、京都からの手紙を見て同人相集つて晩飯を食ふ手筈になつてゐるとのこと。直ちに自動車を飛して御器所に博士を訪ひ、潮山長三君も一緒に、途中名古屋新聞の稲川君を誘ひ、料亭蜂龍に出掛けると國枝史郎君既に坐にあり、本田緒生君も見えて、十一時過ぎまで会談した。
 翌日は所用に夕方までかゝり、ぐつたりして横になつてゐると、わざゝゝ(※3)小酒井博士の来訪に接し、一月号からの長篇創作のお話など承つてゐる中に稲川君も見え、たうとう又十一時まで快談して、汽車に乗つたのが同四十分であつた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。

底本:『新青年』 大正15年11月号

(公開:2017年3月8日 最終更新:2017年3月8日)