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『呪はれの家』を読んで――小酒井博士に呈す――

春田能為

「女性」四月号に私の尊敬する小酒井氏の創作探偵小説が掲載せられてゐる事を知つた時に私の胸は躍つた。明敏な頭脳を持つた犯罪学者、さうして独特のアトラクチヴな文章で、グンゝゝ(※1)読者をひき入れて行く達者な筆の持主、ほんたうに鬼に金棒と云ふのはこの事で、氏が創作に筆を染められると云ふ事は、探偵小説界にとつて、どんなに有難い事であり、且つ心強い事であらう。私は大きな喜びと期待とをもつて、氏のこの処女作「呪はれの家」を読んだのである――断つて置くが、之は氏の処女作ではないかも知れぬ。私にとつては氏の創作として見た最初の一篇であるので、斯く呼ばして貰ふ――さうして、勿論、私は氏の蟠りなき筆致、巧みなる構想、わけてもその豊富なる材料には感歎置く能はざるものがあつた。が、それと同時に、犯罪学者たる氏の学識が全篇に充ち渡つて、恰も探偵術の臨床講義を聞くやうであり、稍もすると犯罪実話に堕せんとする所があつたのを深く惜しむ。私はこゝにこの点につき非礼をも省ず、少しく論じたいと思ふ。深く小酒井氏の寛恕を乞ふ。
 順序として、本篇を読まれない諸君の為に左(さ)に梗概を述べる。

 警視庁警部霧原庄三郎氏は犯人訊問にかけて卓越したる技能の所有者で、氏の訊問法の極意は犯人に致命的の言を最も適当なる時期に発して、犯人をして一言(げん)の許に自白せしめるにある。或(ある)人は之をバーンスの三等訊問法に比して、特等訊問法と名づけた。
 或(ある)日小石川某所に殺人事件が起つた。夜十二時過ぎ、人殺しと云ふ金切声が闇に響き渡つて、人々が駆けつけた時には、一人の若い女がうんゝゝ(※2)呻いてゐて、右手で地上に「ツノダ」の三字を書いて絶命した。致命傷は背部肩胛骨の下の所を短刀で突かれたので、短刀は現場に遺棄してあつたが指紋はなかつた。解剖の結果女は姙娠三ヶ月である事が分つた。と、この殺人と殆ど同時刻に犯行の場所から程遠からぬ所を、人殺しと呼びながら駆けて行く一人の若者があつた。巡回中の巡査は抵抗する彼を捩ぢ伏せて引致したが、彼の袂に血痕が五、六滴ついてゐた。女のやうに色の白いこのやさ男は当然殺人事件に関係あるものと見倣された。
 さてこの青年平岡の申立てにより、彼の住宅を調べると、警官の姿を見て逃げ出さんとした同居人園田と云ふ男が発見せられた。彼は前科者であつた。この二人は各々被害者を知らざる旨答へ、且つ右の住居にも女の同居してゐた形跡はなかつたけれども、炯眼な霧原氏は部下の刑事に命じて便所を検査せしめ、発見せられた多量の嘔吐物が悪阻によるものと認められる点、及びツノダと書したる紙片を発見したので、確(たしか)に女は同居してゐたものと断じたのであつた。
 霧原氏はこの嫌疑者二名に夫々簡単な訊問をした後に、一室にて会見せしめ、密(ひそか)にその室を覗(うかゞ)つて彼等の会話を聞かんとした所、意外にも彼等二人は手真似を以つて話したので計画は画餅に帰した。然しながら手真似と云ふ事が直ちに霧原氏に或る考へを与へた。彼は直ちに大学で死体の再解剖をして貰つて、被害者の唖なる事を確めた。
 霧原氏は再び青年平岡を訊問して「ツノダ」なる言を発すると意外の反応があつたので突如として、彼の特等訊問法を用ひた。
「殺されたのは君の妹の唖だよ。」
 青年は忽ち園田が犯人なる事を自白した。妹と断じたのは、青年と被害者の横顔が似てゐたからである。隣室で青年の告白を聞いた園田は義歯中に入れてあつた青酸を呑んで自殺した。
 告白書を書く余裕を与へられた青年は、その生家が本所の旧家であり、角田某なる僧侶に祟られて代々唖が一人づつ生れ、而もその秘密が暴露すれば一家が全滅すると云ふ因縁のある事、震災で一家全滅し妹と彼は園田に助けられ、妹は遂に園田に恋して割なき仲となつたが、彼は「半男女(ふたなり)」であつて、月経が始まるとともに今迄の男が女となつて終(しま)つて、彼亦(また)園田と恋に陥ちた事、妹は嫉妬に燃えて、幼少の時いつとはなしに覚えた「ツノダ」なる三字を書き投(な)ぐつて二人の間を呪ふので、遂に殺意を生じ、妹の唖なる事を隠し捜索の方針を誤らす為めに彼は人殺しなる声を上げ、園田は彼女を刺したのである事を認(したゝ)めて、霧原氏の予期してゐた如く自殺する。
 霧原氏は便所内より得たる「ツノダ」と書かれたる紙片が非常に役に立つた事を述べて「臭い所も馬鹿にならぬ。くさいものに蓋をしろと云ふ諺は或は撤廃した方がいゝかもしれぬ。ハヽヽヽ」と哄笑する。
 短い紙数では到底述べられぬが、作者の犯罪学上の知識は到る所に汪溢してゐて、興味深きものがある。これらの点につきては原作を一読せられたい。

 さて、一読して先づもの足りなく感じたのは余りサラゝゝ(※3)とこだはりなく書かれてゐる事である。これが稍もすると探偵術の講義のやうであつたり、犯罪実話めく所以(ゆゑん)ではなからうか。と云つても作の内容に至つては決して平坦、アスフアルト路(ぢ)を自動車で行くやうなものではない。頗る曲折に富むのであるが、つまり書き方が平坦な為で、作者は作中のどの部分にも特別力を入れず、又どの部分も特に省略してゐない。かう云ふ書き方は探偵小説には損であると思ふ。
 私が篇中に於て、一つの頂点(クライマツクス)として誠に面白いと思つたのは、嫌疑者たる園田と平岡とを会見させる所であつた。之等の嫌疑者を会見せしめる事は可成り冒険である。何故なら二人はいかなる打合せをするかも知れないし、その為めに今後の取調上いかなる支障を来すかも知れないからである。
 平岡と園田は彼等自身には全く二人切りと思はせるやうな部屋に入れられる。斯う云ふ風に安心を与へて置いて、密(ひそか)に刑事は眼を見はつて彼等の行動を覗(うかゞ)ひ、霧原警部は耳を傾けて彼等の会話を聞いてゐる。読者は無論固唾を呑んで結果如何と待ち構へる。が声が聞えない。刑事は蒼くなつた。二人は手真似で会話を始めたのである。之は恰も彼(かれ)ルコツク探偵が新たなる手懸りを得ては囚人を自白せしめんとして(田中早苗氏訳名探偵参照)いつでも思はぬ邪魔の為めに、今一歩と云ふ時に失敗する。あの読者をして極度に緊張させて置いて、急転直下せしめる技巧で一つの頂点(クライマツクス)である。この所などはも少し力を入れて書いて読者をして手に汗を握らしめるやうにせねばならぬ。
 特等訊問法についても一つの手落がある。
 既に述べた如く「殺されたのは君の妹の唖だよ」と云ふ嫌疑者平岡にとつては致命的の言葉を最も適当な時機に発して、成功するのであるが、既に特等訊問と云ふ言葉で読者に興味を与へてある以上、読者の聞きたいのはいかにして霧原氏が被害者が平岡の妹である事や、或は唖である事を知り得たかと云ふ点よりも氏がいかにしてこの推測し得たる事実を有効に使用して一言(げん)の許に犯行を自白せしめ得るかと云ふ点である。之を江戸川亂歩氏の傑作たる「心理試験」に見るに、興味の中心はいかにして心理試験が成功したかと云ふ所にある。故に作者は犯人の犯行や、その方法及び心理試験に備へた所などは少しも隠さず読者に伝へてゐる。判事のやり方についても同様である。そこで巧みに企んだ犯人の技巧は間然する所なく成功したやうに、判事にも犯人自身にも亦読者にも信ぜられる。が、只一人の明智(あけち)によつてのみその結果が覆へされる。然もその根拠とする所は犯人は勿論判事も読者も既に見聞(けんぶん)しながら、見逃してゐた所の些細な事実であつた。読者は明智に云はれてから前の頁を繰つて見る。成程と思ふ。屏風についた爪の痕、犯人も鳥渡気にした些細な瑕、たつた之だけの事がいかにも自然に読者がいつの間にか忘れて終(しま)つてゐる。然し読んだ当時には深い感銘を得られるやうに――丁度犯人自身に対すると同じ程度に――書かれてゐるのである。之が「心理試験」の成功である。もし読者が後で調べて見て、爪の瑕の事が全然書かれて居なかつたり、よし書かれてあつても「指先が屏風に触れて少しばかり瑕を拵へた」位の簡単な書き方に止めて、其(それ)が小野の小町の顔であつた事と、犯人が「一寸気になる様子で、その屏風の破れを眺めた」と云ふ事を何くはぬ筆で書き足し、「だが何も心配する事はない。こんなものが証拠になる気遣(きづかひ)がない」――読者も同感する――と云ふやうな事が書き添へてなかつたら、「心理試験」の面白味は過半なくなつて終(しま)うのである。
 さて特等訊問について見るに、霧原氏の突如として発した言葉が出鱈目であつたら読者は少しも感心しない。又後(あと)に霧原氏が説明して出鱈目でない事を証明しても遅い。即ちあの数語が発せられる前に、出鱈目でないと云ふ事を或る程度まで読者に伝へて置かねばならぬ。
 被害者が唖であると云ふ事は、嫌疑者を会見せしめて失敗した時に、
「手真似! さうだ、二人に手真似で話されたのは失敗だつたが‥‥待ちたまへ、そこに秘密の鍵がある様にも思はれる‥‥」(中略)「こりや君、も一度屍体解剖をやり直さなくちやならん」と霧原氏が云ふので推察せられるし、又後(のち)に氏の説明中に「唖は字画を正しくはつきり書くものだよ」とあるから、もしこの唖の書く文字に対する智識のある人なら(※4)前段にツノダと云ふ文字が「墨ではつきり書かれてあつた」とか、「このやうなふとい文字ではつきりした書体で」とか度々書かれてゐたから推察し得られたであらう。

 が、妹と云ふ事は?
 青年平岡が被害者と同居してゐた点と、訊問の際「妹が一人ありました」と云つてゐる言葉からだけでは妹と云ふ推定は得憎い。後(のち)の説明に女の横顔と、平岡のそれが似てゐたからとあるが、之は読者は知らぬ事である。
「さて、殺された女と平岡を結びつける鎖の環(わ)となるものは何一つ(※5)ない――かう考へた時霧原警部はふとあることに考へ合せてニコリとした」とある丈では何を考へついたか少しも分らぬ。この所は少くとも「ふと彼は女の横顔を思ひ浮べた。さうして平岡の横顔と考へ合せてニコリとした。」と書いてあれば稍推測がつく。これだけの事が書いてあつても、兄妹と云ふ事は確実には分らぬ。唖の文字を知らぬ人にはいくら文字の特徴が並べてあつても無意味である如く、推測し得ない人にはいかなる手がかりも無意味である。只作者としては或る程度まで推測し得られるやうにして置かねばならぬ。読者はその時は読過(よみすご)してゐても、後(のち)に調べて妹であると云ふ暗示(セント)が充分書かれてあれば満足するのである。
 一体斯う云ふ犯罪捜索のプロセスを主とする小説では――私は之を純正探偵小説と呼ぶ。何故なら探偵小説の起原が抑も犯罪捜索のプロセスを小説化したにある。こゝに一つの犯罪が行はれる。職業的或は素人探偵が現はれて犯人の捜索を始める。読者は出来得る限り探偵について行く。探偵を中心として捜索のプロセスが一つゝゝ(※6)展開されて行く。之が探偵小説の起原で、又探偵小説なる名も之に基いてゐるのである。さうして最近の傾向では犯罪捜索を主とする形式が、犯罪そのものを取扱ふ形式に変りつゝある。この事については他日機会を得て論じたいと思ふ――さてこの純正探偵小説にあつては、原則として捜索に従事する探偵の推察し得た事は悉く読者に知らさなければいけない。必要に依つては赤裸々に、又多くの場合には明敏なる読者に推察し得る程度に――此際推察に専門的知識を要する事は一般読者の興味を薄める事は免がれない――読者に伝へるのである。
 この種の小説の傑作たるウイルキ・コリンスの月長石ドウゼの夜の冒険について見るに作者は読者に何事も隠してない。月長石では読者は最後まで欺かれる。然し作者は既に初めの方に於て、フランクリンと医者との激論に暗示してゐるのである。
『すると遠慮のないキヤンデイ氏のことだから、「成程、貴方の神経は普通ではないやうだ(。)(※7)早速医薬を用ひなさるがいゝ。」と云ふと、フランクリン様が、「いろんな薬を服(の)むことは闇の中を手探りで捜して廻ると同じことだ。」と云はれたのでキヤンデイ氏も敗けては居ず、当意即妙、「左様(さう)云へば貴方は眠らうと思つて何かを捜し廻つてゐるのだ。薬を服(の)まなくちや、眠られませんぜ。」と来た。』(森下氏訳呪ひの宝石に依る)
 僅々数行に全篇三百余頁の伏線が隠されてゐるのである。又「夜の冒険」は小酒井氏の訳になり、かつて本誌の読者を熱狂せしめたのであるが、結果が示したやうに炯眼なる読者には立派に犯人が突き留め得る迄に書いてあつて、而もその為めに少しも興味を損じてゐないのである。作中で探偵が単に「眼を輝かした」とか「思ひ当る所があるやうであつた」とか書いてそれ以上に推測の材料を与へないのは失敗である。

 次に述べたいのは「呪はれの家」に於て作者が二つの重心を作つた事である。
 先づ作者の狙つた所は霧原氏の特等訊問法であつて、最初に断つてある如く、ある事件の取調べに応用された霧原警部の「特等訊問法」を紹介すると共に、その事件の顛末を記されたものである。然るに殺された女の一家の運命に関する話は挿話――即ちこの話は霧原氏の捜索には何の関係もないのである――とすべく余りに興味深く、現に題名に「呪はれの家」とある程で、その結果作は二つに分たれたのである。私は作者は思ひ切つて初めから二つの作にすれば好かつたと思ふ。呪はれの家だけで立派に小説になる。又強いて一つにするならば矢張り重心を特等訊問法に置いて、題名もそのまゝ特等訊問法とし、専らこれに興味を集注すべきであつたと思ふ。
 一体初めに、この話は特等訊問法であるぞと云ふ風に力点を最初に置くのは余程考へねばならない。江戸川氏も「黒手組」に於て明かにこの失敗をしてゐる。あれは黒手組の風説を背景として行はれた、気の毒な書生の面白い犯罪が主であつて、只あの一見普通の手紙としか思へないものが暗号であると云ふ事を強いて示したい為めに巻頭に置いたのであるが、むつかしい暗号も解いて見れば頗る簡単であつて、娘の失踪が黒手組の所為(しよゐ)でない事を立証する一つの手がかりに過ぎず、初めに大きく書き出される程全篇的の働きをしてゐない。娘の失踪が黒手組の所為(しよゐ)でない事は金を取つて娘を返へさないので分つてゐる。又炯眼な読者なら、脅迫状が郵便で来ない。郵便受函に投ぜられて、それを書生の牧田が出したのであると分つた時にもう推測がつく(。)(※8)書生の牧田が頓狂な調子で答へた。といふ時にもう分つてゐる筈である。だからあの手紙が篇中にあるやうに母親が幾分の疑(うたがひ)と共に明智に渡すと云ふだけにして置いて、あとで明智に「あれが君、暗号なんだよ」と云はした方が、遙に効果が多い。巻頭に暗号を出したのは確(たしか)に失敗であつて、読者をして暗号に重きを置かしめ、作が二つに割れるのである。
 私は今迄に、「呪はれの家」が余りに平坦なる書き方で、探偵小説としては抑揚を欠き、特等訊問法を興味の中心たらしめるのに妹の件に書き足らぬ所があるのを指摘し、又特等訊問法の説明を巻頭に置いた点につき不満を述べた。小説の構造に対する点は之で尽きてゐるが、私は更に作品の扱ひ方について小酒井氏に一言(げん)したい。然し之は要するに趣味の問題であつて、孰(いづ)れを是とするかは人々の好みによる事である事を断つて置く。
 第一の点は園田を自殺せしめた事である。
 園田は前科者である。前科者と云つても必ずしも悪者ばかりではない。充分善良であり得る。然し作者が前科者だと云つて読者に紹介してそれ以外に一言も加へない時には、読者は前科者なる言葉の概念を以つて率するよりない。それに彼は唖の娘に関係してゐる。無論、唖の娘に対しても真の恋愛はあり得る。然し彼は兄が女になると忽ち関係して、さうして唖の娘を犯跡を巧みにくらますやうな方法で殺してゐる。どうも自殺しさうな性格と思へない。この園田を自殺で片づけたのは作者の不精だと思ふ。無論、私は園田を生かして、もつと大きい刑罰を与へねばならんと云ふ道徳観から云ふのではない。園田が自殺するやうな性格として、読者に紹介せられてゐないと云ふ点である。義歯中の青酸を呑んで死ぬと云ふのも、ポツシブルであるかも知れんが、プロバブルぢやないと思ふ。
 第二の点は便所の掃除である。
 之はむしろ作者の得意とする所かも知れない。何故なら最後に霧原氏に便所掃除の効果を力説せしめてゐるからである。私は事実上の犯罪捜索に於ては、便所の掃除、便糞(ふんべん)の検査等が非常に有効なものである事は否まない。犯罪学者たる氏が探偵小説家がかゝる事を閑却してゐる点を不満として居られるかも知れない。然し、私には悪阻だとか、その為の嘔吐物だとか、糞壺(ふんつぼ)の中から拾つた紙だとか云ふのは不愉快である。犯罪実話なら止むを得ない。然し私は小説にはつとめて避けたいと思ふ。殊に一般的に探偵なる職業に偏見を持て、稍もすると、卑怯なる或は不愉快なる方法で、人の秘密を扞(あば)くものと見られ勝ちで、従つて探偵小説も下品なるものと見られ勝ちであるから、一層さう考へるのである。小説は事実である必要は少しもない。只事実らしくあれば好いのである。例へば前掲の園田の場合でも、或は事実あつた事で彼は自殺したかも知れない。然し作中にあつては、自殺せしめやうと、せしめまいと作者の自由であつて、作者の人生観、運命観等で取り扱ひ方が違ふのである。
 私は犯罪学者たる小酒井氏が、実に豊富な貴重な材料を持つて居られる事に推服すると共に、軽い羨望さへ感じる。この「呪はれの家」に書かれてゐるだけの材料でも、かのソーンダイク博士の数篇に匹敵するものがある。只氏がその創作小説に於て、余りに蘊蓄を傾けられる事が、反(かへ)つて小説の気品を損ずる事がなからうかと杞憂するのである。
 私は終りに小酒井氏に対し礼を欠いた事を深く謝する。然し私は既に世人の注視の的である所の氏が創作を発表せらるとすると、その創作は創作探偵小説を代表する結果となり――即ち今迄創作に親しまない人達も、氏の文名を慕つて読むのである――非常に重きをなすのであるから不敏をも省(かへりみ)ず感ずる所を披瀝したのである。小酒井氏も亦この輿望と重任に対し、深く自重せられん事を切に願ふのである。

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)句読点原文ママ。
(※5)原文圏点。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)原文句読点なし。

底本:『新青年』大正14年6月号

(リニューアル公開:2017年9月29日 最終更新:2017年9月29日)