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小酒井博士の新著 科学より観たる犯罪と探偵を紹介す

森下雨村

 犯罪科学並(ならび)に犯罪文学の領域に亘る小酒井博士の薀蓄が、如何に深く且つ広いかと云ふことは、敢てこゝに贅言を費すまでもないことゝ思ふ。特に本誌の読者諸君に向つてはさうである。事実、斯の方面に於ける博士の研鑽と薀蓄は、啻(ただ)に本邦に於ける第一者たるのみならず、寡聞ながら自分の知る範囲に於ては欧米諸国にも亦類を見ずと断言して差支へなからうと信ずる。犯罪科学の一部門に於ける権威はその人に乏しくない、同時に純然たる犯罪文学の先覚知識も数多い。しかしながら小酒井博士の如く、この両面を兼ね具へたる権威的研究者は、恐らく欧米諸国の何れを捜すとも求め得ないであらうと思ふ。この事実は、目下本誌に連載しつゝある大論文「殺人論」に徴すれば明かである。「殺人」に関する研究者は多しと雖も、博士の斯の論文の如く科学、文学、歴史其他凡(あら)ゆる方面に亘り、精を尽し微を穿つ底(てい)の徹底的研究を試みたるものは、英仏米独、孰(いず)れの学界乃至文学界にもその類例を見ざるところである。この意味に於て、私は犯罪文学の愛読者且つは雑誌編輯者として、博士に対し深甚なる敬意と感謝を表しつゝある次第であつて、その近業を一冊の書として江湖に紹介すべく、これを博士に請ふて、その許諾を得た所以もそこにある。博士の新著、題して「科学より観たる犯罪と探偵」と云ふ。その一部は本誌上に、他は「解放」「週刊朝日」等に掲載されたもの。「視覚錯誤に基く冤罪と犯罪」「推理と観察」「血液の秘密」以下八項目、計三百五十頁、就中「毒と毒殺」の(※1)篇は博士が特に心血を注がれたる百余頁の大研究であつて、犯罪文学に興味を有する諸君の必読すべきものであらうと、私は信ずる。詳細なる紹介は次号に於てでもするつもりであるが、私は博士のこの新しい著書が出版されたと云ふことだけで、もう欣快禁ずる能はず読者諸君にお知らせをした訳である。尚ほ、この書の出版に際して、博士は可及的広い範囲の読者に探偵小説に対する興味を喚起したいといふので、出来る限り価格の低廉なることを希望され、一般書肆の出版物より見れば半価にも足らない定価を以てすることにしたと云ふ事実を、私は出版界に於ける一つの美挙としてこゝに書き加へて置きたい(定価一円四十銭、税八銭博文館発行)

(※1)原文ママ。

底本:『新青年』大正12年7月号

(公開:2017年3月5日 最終更新:2017年3月5日)