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(幽界通信)『其処はおとし穴だよ』―小酒井不木―

岡戸武平

 ………早いものだね。僕がこちらへ来てから、もうマル八年になる。昭和四年四月一日だつたからね。名も小酒井不木でなくて「晃慈院釈文道霊位」だ。この名をつけてくれた和尚も死んで、先だつてあの赭ぶくれのした大きな顔を見せてくれたよ。いや、だんゝゝ(※1)仲間が殖えてくるね。濱尾君がやつて来る。後進の夢野君がやつてくる。淋しいどころか談論風発で日もこれ足らずの有様だよ。時々夢野君が洒落を云つて、鬼に舌を抜かれやうとするのは愉快だな。鬼には洒落が分らぬとみえて、みんな嘘だと思ふんだね。河童には洒落が分るらしいが、鬼は皆目だめだ。
 鬼と云へば、君の方の世界にはいろゝゝ(※2)な鬼がゐるね。探偵小説の鬼、文学の鬼、債鬼、鬼婆、大鬼、小鬼……だから酒にまで鬼ころしと云ふ奴がある。その鬼の棟梁、江戸川君も相不変なまけてゐるね。いや、彼はなまけさせて置いた方がいゝんだよ。彼は書かないだけで、空想ではうんと原稿を書いてゐる訳になるからね。あの読書力を見給へ。読むわゝゝゝ(※3)、片ッ端から読破してゐるのには驚くよ。
 一体何を求めてそんなに本を読むのか、と云ふのか。左様、一つには、書かない穴埋めの自慰(申訳かな?)もあるが、やつぱり、探偵小説も文学との二つの川を何処かで合流させようと、その地点の地探しをやつてゐるんだね。いゝ心掛けだよ。僕なども探偵小説を書いてゐる時分は、いつもその合流方法を考へてゐたものだ。こいつア、探偵小説家の落ち込むおとし穴だな。しかし、彼はその穴の存在を知つてゐて、落ち込まない先に、ちやんと、探偵小説と、文学の本質を見分けて、その上、探偵小説の文学化に努力してゐるんだから、彼は偉らいといふことになる。まあこの先どう変化するとも限らないが、文学心を燃烈にもつて書いた探偵小説は、自然文学への本道へ行きつくのぢやあるまいか。これぐらゐにしかハツキリしたことは云へないよ(。)(※4)
 さう云へば、木々高太郎君といふのは、なかゝゝ(※5)いゝ物を書く人だね。なんだか、僕の代りが出来たやうで意を強うしたよ。同君も探偵文学派だね。いや、彼のエツセイを見るとなかゝゝ(※6)頑強だ。探偵小説は文学の王座であるなんて、大見得を切つたところはよかつた。僕は論旨の如何より、先づあの勇気を買ふね。あの情熱がいつまでも続くとしたら、彼は無理にも探偵小説をテント張りの見世物小屋から引づり出して、檜舞台にまで押上げてしまふね。その成果は分らないが、そこまではきつとやるよ。またやつて欲しいものだ。それを今から僕も楽しみにしてゐる訳さ。
 何か註文はないか、と云ふのか。あるね、いろゝゝ(※7)。実を云やア、僕達がやつてゐた時代からそんなに進歩してゐないぢやないか。マア変つた作家として、小栗虫太郎君といふのが出た位で、これと云ふ作品も生れないやうに思ふがどうだね。僕達の頃と少し探偵小説に対する情熱が覚めかけてゐるんぢやないか。みんな大人になつてしまつてね。甲賀君も大家、大下君も大家、とかく、雑誌社から大家扱ひを受けるやうになると、本当のものが書けなくなるらしいね。それと云ふのも、みんな懐中(ふところ)具合がよくなるからね。遂ひ楽な方へ、楽の方へと逃げてしまふんだ。なに収入が分るかつて、冗談云つちやいかんよ。閻魔帳はこちらが本家ぢやないか、ハハハハ。
 マア冗談はともかくとして、探偵作家だつて霞を食つて生きてゐるわけにも行かないし(、)(※8)さうゝゝ(※9)借家生活ばかりも飽くんだらうから家の一軒位建てるのは当然だが、もう少し社会生活に寄与する(文相試案の文句のやうだね)新聞小説乃至は長篇小説の方へ進出出来ないものかね。僕はかつて肺病を取扱つた探偵小説であり、かつ社会小説を書かうと思つたことがあつたが、これは広義の文学的作品にも近づく途ではないかと思ふのだよ。肺病は決して不治の病ではない、といふテーマの探偵小説を書いてみたまへ、世の結核患者はどれほど勇気づけられるか。さういふ常識的な社会寄与のものでいゝから、探偵小説に織り込んで欲しいと思ふのさ。敢て、甲賀、大下両君に僕は頼むね。たまにやピストルを持つかはりに、数珠をつまぐつたつて罰も当りはしまい。
 この頃、翻訳探偵小説が雨後の筍のやうに出るね。そいつを探偵黄金時代来るなんて、よろこぶのはチト気が早いよ。買つて読む方ぢや、日本の探偵小説に面白いのがないから仕方なくワキガの臭い毛唐を買つてゐるんだからね。毛唐の書くものなんか振り向きもさせないやうに、日本の探偵小説壇もならなければ嘘さ。……さあ、早く帰らないと、君まで鬼にとツ憑かれるよ。……

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文句読点なし。
(※5)(※6)(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文句読点なし。
(※9)原文の踊り字は「く」。

底本:『ぷろふいる』昭和11年8月号

(公開:2014年11月20日 最終更新:2014年11月20日)