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長尾藻城

 私が光次としての小酒井博士の名を初めて知つたのは、まだ東京大学の生理学教室に研究してゐられた時である。名を聞て顔を識らず、見ぬ恋に憬れてゐた。それは博士が医学以外に文学の造詣が深いといふことを伝聞してゐたからである。なほそればかりでなく、其教室の主任たる教授永井先生と私とはふとしたことから懇篤の知遇を得て平常私淑敬慕してゐたので、小酒井博士が其門下にゐらるゝといふことも、一層のなつかしさを深うした。しかし時到らずして相遇相逢ふの機会を得なかつた。
 爾後博士が欧米留学の途に上らるゝ時、偶然にも私が一友人の外遊する者を見送つて横浜埠頭に至つた際、春洋丸の甲板上で、多年渇仰の的になつてゐた博士に刺を通ずる光栄に浴した。一見さながら十年の旧知の如く、手に手を取て打喜び、相並むで紀念の撮影などをしたことが、今猶ほありゝゝ(※1)と私の記憶に残つて居る。思へば奇しき因縁といはねばならぬ。こゝに交際の緒が開かれて、博士の外遊中、知人と合作の絵葉書などを投ぜられたこともある。
 優秀なる頭脳の持主たる博士が鵬雲万里絶大の志を抱いて海外の客となり、一意専心進むべき道に蛍雪の労を積まれたことは、こゝに言ふ丈管であるが、由来好事魔多く儘にならぬが人生の常とは言ひ乍ら、風土山川を異にする西洋の天地、春寒秋冷肌膚に佳ならず、不幸にも仏国留学中病床に呻吟するの身と成り、万斛の涙を呑むで帰朝さるゝの止むなき次第とはなつた。前途多くの人から期待されてゐた栄誉ある東北大学教授の職を退かるゝに至つたのも、亦た病の為めである。博士の胸奥に秘蔵せられてゐる該博なる学問知識は決して私せらるべきものでないことは、博士夫れ自身に於てよく承知せられてゐる。しかも断乎として教職を擲たるゝに至つたことは、よくゝゝ(※2)の次第と言はねばならぬ。一度び其心事を忖度すると唯だこれ涙の種である。博士の病は啻に個人として悲しむべきのみならず、実に国家の為め、斯学の為め、将た斯道の為めの一大損失であることは言ふ迄もない。想へば千秋の恨事である。
 責任ある地位を去つて日本晴れのした博士は、専ら療病生活に入られた。療病と言つても現代の医学が那辺まで治療的方面に発達の歩武を進めて居るかを十分に知悉せられて居る博士は、尋常一様月並式の療法のみを以て足れりとせず、自然療法と精神療法の協調を巧みに遵守して聊かの抜目がない。さしもに重態を伝へられた疾患が現状を維持して前途に光明を認めつつあるといふことは一見奇蹟のやうにも解釈せられる。併しこれは何等の不思議はないのである。物質偏倚の医学に囚へられず、自然を使役して療病の神髄に命中してゐるからである。其一方法ともいふべき任意の読書と執筆の如き正しくそれである。若夫れ逍遙として著書三昧に入れる時、恍として身辺何等の器質的疾患あるを打忘るゝであらう。一程度までは精神的現象は物質的現象を制禦することが出来る。療病生活の心理状態は至純にして至美、恰も神の如きものである、其間獲る所の作物が尊むべき内容をもつて居るのは怪しむに足らぬ。
 今を去ること両三年、私が「読売新聞」に、「医者気質」を続載したことがある。その時博士から突然書を寄せられて、分外の賛意を表せられ、自分も何か書いて見たいと言ふやうな意思を漏らされたことがある。その後幾于もなくして博士の「学者気質」が「東京日々新聞」紙上に現はれた。不木としての小酒井博士に接したのは実にこの時である。これ博士が療病生活の副産物たるに外ならぬ。何がさて充ちに満たる腹笥を傾注されての作物、勿論不用意の間に筆を執られたものとは言へ、識見の高邁なる引用の該博なる、果然洛陽の紙価を騰からしめた。これが動機となつて、爾来新聞雑誌に公表された幾多の述作は、到る処に喧伝せられ、今や不木博士の文名は走卒児童といへども、之を知らぬものがない。本書収むる所は其鱗片たるに過ぎないのであるが、しかも博士の面目躍如たるものがある。英仏独羅の語学に堪能なる博士が、主として題材を彼に採り、原文を咀嚼、玩味、消化して、博士一流の穿ちのきゝたる霊犀なる観察を、毫も訳文の痕跡なき無凝流暢なる妙文によりて描写されし一大偉観は蓋し本書の特色であつて、苟くも他の追随を許さぬものがある。
 嗚呼、医学者としての小酒井博士が、病の為めに大学の教職を辞されたことは学問界の為めに悲しむべきことであつたが、療病生活の副産物としてものされた幾多の作物が、他の異なりたる方面に於て貢献されたことは決して尠少でない。大学の教壇に立つのみが学者の本文ではないのであつて、博士の療病生活は、自己の病を養ふに兼ねて、世の中の病を療することに、どれだけの効果があるか知れぬ。博士にして病なくんば、恐らくこのことが望まれ得なかつたであらう、否、早晩指を染めらるゝにしても、かくも心を専らにすることは許されなかつた事情があるかも知れぬ。して見ると、博士の病を獲られたことが、個人としてはお気の毒千万であるが、世の為め人の為め幸福であつたと解釈することも出来ないではない。
 心ある人の療病生活は精神的修養と哲学的思索に対しての天与の好日月であるとも言へやう。正岡子規、近藤燕處の著述は之を立証して余りあるを覚ふる。
 この書成るの日、博士が莞爾として病床を兼ねた理想的な書斎の内で微笑を漏らさるゝ風(ぼう)(※3)は今、まのあたりに浮き出して見えるやうな心地がする。この一事また以て療病の良薬石たるを失はないことを信じて疑はぬ。不肖私のやうな者が博士の高著の巻頭に序文を書くなどは僭越千万であるが、断じて辞退すべからずとの厳命もだしがたく、盲者蛇を恐れず、直覚の感を記し、仏頭糞を著くるの暴挙を敢てした次第である。

 大正十三年甲子六月下浣
 京摂漫遊中山城国宇治万碧楼に於て
 山陽先生篆額下に認む
 長尾藻城 拝草

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文の漢字は三本線に縦棒。(「Unicode:U+4E30」)

底本:『西洋医談』(克誠堂書店)大正13年7月18日発行

(公開:2017年9月29日 最終更新:2017年9月29日)