小酒井不木年譜


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1927(昭和2)年

37歳

この頃

「座談会 大澤鉦一郎先生を偲んで」(『大澤鉦一郎追悼録』 1975(昭和50)年1月1日発行)
あれは大正の末の頃名古屋出身の小酒井不木と言う探偵小説作家がいてね、そこでわたしは書生をしていた。その頃探偵小説として日本で最初の長篇「疑問の黒枠」を先生が書かれることになったんですわ。先生も原稿が早い方ではないから、東京へ原稿を送って挿絵を頼んでいては時間がかかる、誰か名古屋で挿絵を描く者はいないかと聞かれたもんだから、「そりゃあります。どう言うものが出来るか知らないが、いやならやめりゃいいんだから」と小酒井さんのうちへ大澤さんに来て貰って相談をし、初めて挿絵を描かれたんです。

(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
 ただ一つ、小酒井不木について、側近にいた私にもわからないことがある。それ一女性のことで、昭和二年の話である。先生が私にいわれるに――君、どこかに小じんまりした喫茶店の売りものはないだろうか。ナニ僕が経営するんじゃない、ある女性がやるんだが一つ探してやってくれないか、という話。そのときちょうど私の友人のやっていた喫茶店を手放したいといっていたことを思い出して、その話をすると、先生も乗り気でそれでは早速彼女に連絡するから一度案内してやってくれ給えという話だった。
 当時、喫茶店といえばあながち規模の大きいばかりが芸ではなく、その経営者であり、ママであり、女給であるといった一人三役をする女性が美人であり、教養があり、お色気の魅力があれば、使用人なしの一匹狼で結構経営が成り立った。そういうママのイメージに、この女性が適合すればいいがと思って初対面すると、これがカマキリ型のウバ桜で、口だけは達者といった私の一番きらいな質の女性である。年令は三十を越していただろう。若く見せようとする髪型、厚化粧――これがまたイヤ味で、これでは商売をはじめてもどうかと思われたが、私がとやこういう立場ではないので、その女性の意のまゝにこの店を買収して喫茶店をはじめた。
 そのとき小酒井先生は、私にひそかに北海道庁発行の額面千円の地方債を渡して、これで店の譲渡をすませてくれ、もっとも額面は千円だけれども千円には売れないからという注意があった。店の譲渡はたしか居抜きで八百円であったと記憶する。この一枚の債券は、おそらく十枚のうちから抜かれたもので、先生の死後未亡人が財産整理のときこれを発見してどう感じられたか――その件について私もいささか釈明をしておく必要もあるので、先生の死後一度聞いてみようと思いながら、その機を得ず東京へ移転してしまった。
 というのはこの女性に対する先生の親切が、異常なものであったからだ。先生の死が報じられて彼女は当時すでにその店を売って東京に移住していたが、すぐ牧野町にあった火葬場へ馳けつけて最後のお別れをした。そのとき小酒井夫人の鋭い視線が、この女性にそそがれたのを私は今でも眼に見るようである。
 一体この女性と小酒井先生とどういう関係があったのだろう。一度先生の口からいわず語りに“あれは現在宇治山田で開業している僕の友人がニューヨークにいた頃知り合った女で、そんな関係から僕のところへ頼って来たのだ”という意味の釈明を聞いたことがある。それなら山田の昔なじみの男のところへ行けばいいのにと、私は腹のなかで感じた。ともかく千円近い金は当時としては大金である。それを友人の昔の恋人に与えるということは、あの手堅い先生にしては少々臭い……と今もなおそんな感じがしている。この疑問に突き当るごとに、私は火葬場で見た小酒井夫人の刺すような猜疑の眼を思い出す。一体あの女性と、先生とはどういう関係にあったのか。もしありとすればニューヨーク滞在中で、このときは中学時代の同窓である半田の中野(酢屋)などもニューヨークにあって共に遊んだようであるから、外遊中に蒔かれたタネではないかと思っている。それとも私の野次馬根性のはしたない行き過ぎ想像であるかも知れない。どっちにしてもキンゲン実直な先生の最後の舞台――火葬場におけるこの対決は私の眼に烙きついている。

長馬圭之「六号室の頃」(『名古屋近代文学史研究』第20号 昭和49年5月10日発行)
 六号室をはじめたのは、昭和二年の秋。その頃私はひどいスランプの中にあつて、自分自身を慰めるような気持から、あんなクラブみたいな喫茶店を開いたのだつた。サンプルは吉川時子のルル。彼女はもと築地小劇場の女優で、ルルは門前町の明治銀行の裏にあつた。扉を押すと、奥から美しい女主人が現われて淑やかに客を迎えた。何処かでレコードが静かに鳴つていた。
 ルルに比べて六号室は、ひどく男つぽく騒々しかつた。正午前から夜の十二時近くまで、文学や絵の好きな連中でいつぱいだつた。こちらから注文を聞かせないことにしていたので、一杯のコーヒーも飲まないものもあり、飲んでも金をおかない者もある。毎日のように顔を見せたのは、当時名古屋新聞の将棋欄の解説を書いていた飯島正郎、小酒井不木の仕事をしていた岡戸武平。武平は丸屋町の不木の書斎からこゝへやつて来る。松村長之助は夜おそくはいつて来て、電車がなくなるのも関わず話し込んで行く。
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 六号室はもともと私の生活の手段ではなかつたが、誰かゞそのつもりになつてやれば十分経営できる筈だつた。私は別に東雲町に住居があつてめつたにここでは寝なかつた。それを知つている武平は、私がそろそろ厭気になつて譲つてもよいと言つたのを、不木に話したらしく、不木は東京にいる女流歌人を呼び寄せた。私としてはまだ多分に未練を残している六号室へある日武平が不木と当の女流歌人を連れて現われた。三十四五の痩せた女性だつた。今夜から此処で寝たいという話で、私はその日限り六号室から退散せざるを得ないことになつた。こんなことにも武平の如才なさが現われている。
 何も彼も五十年近い昔のことだ。不木が死んだのは、その二年後のことであり、不木と何等かのかゝわりがあつたらしい女流歌人はどうしたか知らぬ。

1月

『名古屋新聞』昭和2年1月7日
 目下来名新守座に出演中の俳優河合武雄丈の懇望で小酒井不木博士はこの程同一座のために新しく探偵戯曲『紅蜘蛛奇譚』を書き下しその第一回台本よみは小酒井氏も出席して五日深更行はれ本月十五日から幕をあける三のかはりより上演されることゝなつた

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東西新派大合同劇御名残り狂言
新守座(名古屋) 昭和2年1月15日-
内容:鴎:情話劇/中井苔杭作 紅蜘蛛奇譚:探偵秘話/小酒井不木作 蔦松葉のお葉/瀬戸英一作

2月

「検閲官の心理」(小酒井不木 『紙魚』 昭和2年3月号)
 最近名古屋の新守座で上演された「紅蜘蛛奇譚」が神戸の八千代座で上演されようとした時、兵庫県の保安課から禁止の命令を受けた。浜松と静岡で上演された時も、何の注意を受けず無事に許可されたので、神戸の禁止を伝へ聞いた時、一体どこが悪いのか聞きたいものだと好奇心にかられた。すると、二三日して上演を許可するといふ通知があつた。多分脚本の一部を抹殺して許されたのであらうと思つて居ると、意外にも上演禁止された理由は、あの脚本が人生を侮辱してゐるといふ理由であつたさうである。

『喜多村緑郎日記』昭和二年二月八日
晴。温かいといつても、小酒井不木のうちを出て、寺田と、野沢と三人で公園まであるいたら、寒かつた。

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東西新派大合同劇
八千代座(楠公前) 昭和2年2月1日-
内容:鴎:情話劇/中井苔抗作 紅蜘蛛奇譚:探偵秘話/小酒井不木作 馬賊芸者/音羽六藏作
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東西新派合同劇:昭和二年二月興行
浪花座 昭和2年2月19日-26日
内容:浅草寺境内/眞山青果作 紅蜘蛛奇譚:探偵秘話/小酒井不木作 馬賊芸者/音羽六藏作

3月

4月

5月

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河合武雄、伊井蓉峰合同劇
帝国劇場 昭和2年5月21日-30日
内容:龍門党異聞/小酒井不木作 恋の受難/平野止夫原作、三木葉一郎脚色 都島原/澤田撫松原作、眞山青果脚色

6月

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特別興行 河合武雄、伊井蓉峰合同劇
道頓堀・中座 昭和2年6月5日-19日
内容:龍門党異聞/小酒井不木作 時の氏神/菊池寛作 都島原/澤田撫松作、眞山青果脚色 証拠/関口次郎作
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河合武雄、伊井蓉峰合同劇:帝劇女優村田嘉久子・河村菊江・特別加入出演
八千代座(楠公前) 昭和2年6月20日-24日
内容:龍門党異聞/小酒井不木作 時の氏神/菊池寛作 都島原/澤田撫松作、眞山青果脚色 証拠/関口次郎作

7月

8月

9月

【LINK】日本芸術文化振興会・蔵書検索
河合武雄、喜多村緑郎合同劇:本郷座九月興行
本郷座 昭和2年9月3日
内容:紅蜘蛛奇譚/小酒井不木作 黒牡丹社/南惠三原作、音羽六藏脚色 新四谷怪談/瀬戸英一作

10月

11月

『喜多村緑郎日記』昭和二年十一月廿五日
晴。名古屋。小酒井氏の書斎にゐると、いつみても、「人間椅子」を感じられる、偉大な椅子を見る。今日はそれにかけると、大分に「バネ」がゆるんでゐた。

「肱掛椅子の凭り心地」 江戸川亂歩(『新青年』昭和4年6月号)
 大抵の訪問者は先づ、その六畳余りの小さい洋風書斎へ通されたものである。内部は窓の側を除いた三方が、造りつけの書棚になつてゐて、和漢洋の書籍がギツシリと壁を為してゐる。主人は今云つたデスクに対して廻転椅子に凭り、客の為には、一番奥まつた所に、幅よりは奥行のずつと長い、私達には珍らしい形の、皮張りの大きな肱掛椅子と、それに並んで、三脚ばかり普通の籐椅子が置いてある。肱掛椅子は、外国から(どこであつたかは忘れた)持帰られたもので、気候によつて、その上に熊の敷皮が置いてあつたりした。

12月

『喜多村緑郎日記』昭和二年十二月七日
   夜風の無くも月の白くある
 名古屋の旅寝は、からだの温まる事の遅くあるのによはつたりした。今日の寸楽の会合では、何れも、ラブシーンを、気まりがわるいから、などゝかたづける人たちだつた。それは合作であるから、かういふ事も口にするのだと思つた。一人で書くのだつたら、かなり甘いことを書ける人たちである筈だ。

『喜多村緑郎日記』昭和二年十二月七日
 朝の街のぬかるみを越えてみる冬日
   小酒井氏へ往く車にのる
 冬日一杯のそこから枯れかゝる竹

(公開:2007年2月19日 最終更新:2023年6月10日)