小酒井不木年譜


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1920(大正9)年

30歳

【年譜】
九年九月 小康を得て賀茂丸にて帰朝の途に就き、十一月神戸に安着す。
十月 東北大学教授に任ぜられたるも、病のため任地に赴くを得ず郷里に静養す。

この年

「西洋初版本漁り」(小酒井不木 『紙魚』 大正15年10月号)
 パリーに渡つた時、いろゝゝ見たいと思ふ本をあてにしてゐたのであるが、病気のために志を果すことが出来ず頗る残念であつた。でも、咯血してゐたに係らず、セーヌ河畔の屋台店を屡々あさつた。だいぶ漁り尽されてゐて目ぼしいものは見つからなかつたが、アルベルト・アグヌスの著述を見つけて、それをどうした都合か、買はずに帰つてしまつたのは今だに惜しいと思つてゐる。

1月

2月

3月

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 ロンドンから巴里へ渉つたのは、大正九年(一九二〇年)の三月三十一日であつた。出迎へて呉れたのは高校学校時代の同窓たる名和軍医で、同夜直ちに同君の御世話で、オテル・アンテルナチオナールの第十六号室(イエナ街に面した二階の一室)に宿つたが、それが私の重病の身を養ふ病室にならうとはその時夢にも思はなかつた。

4月

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 かねてあこがれて居たルーヴルの画廊を訪ねて、ダ、ヴィンチやミレーに接しても、どうした訳か心は浮立たなかつた。セーヌ河岸の古本屋をあさつても、エッフェル塔の頂上に登つて巴里全市を見おろしても、刻一刻と侵されて行く肺の反応が、ひしゝゝと心に感ぜられるのであつた。
          ◆
巴里へ渡つて一週間ほど過ぎると、痰の中に可なりの量に血がまじるやうになつて来た。それにも拘はらず私は平気で外出したのである。
          ◆
 さういふやうな苦しい日送りをして居るとき、私は同じ宿にとまり合せて居るデリール夫人といふ六十近い御婆さんと懇意になつた。夫人はもとパストール研究所員であつたデリール氏の未亡人であるが、アメリカ生れではあるけれど、その後づゝと巴里に滞在して余生を送つて居るとのことで、フランス語の碌に話せない私には誠によい話相手であつて、私たちは毎日可なり沢山の時間を談話に費したのであつた。
          ◆
 デリール夫人の紹介で、私は、メッチニコッフ教授の後をついで居るベスレドカ氏に面会に行つた。ベスレドカ氏は私が研究所で働かしてくれと頼みに来たものと察して、いつでも席を与へてやるから来たまへと言つた。私はそれに対して、健康を害して居るから、巴里では研究に従事しないつもりですと答へたが、その時私は始めて悲しい思ひをしたのである。病を持つ身を悲しいとは思はなかつたが研究をさせてやるとの好意を断らねばならぬのは可なりにつらかつた。

5月

正木俊二、パスツール研究所に入り免疫学を学ぶ。1922(大正11)年7月帰国。
(「高原のサナトリウムに足跡を残した著名人たち」荒川じんぺい 『複十字』 351号 公益財団法人結核予防会 2013年7月 【LINK】

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 たうとう五月十三日には、猛烈な喀血をしてしまつた。午後自分の室で、ドテラを纏つて、うたゝねをして、ふと眼がさめて見ると、咽喉がはしかゆいやうになつたので、これはと思つて起き上つて見ると、けたゝましい咳嗽が起つて、出るわゝゝゝ。私はとりあへず机の上に新聞紙を敷いて、その上に喀いたが、見る見るうちに新聞紙を取替へねばならなかつた。咳嗽の音のたゞならぬに驚いて、何処に居て聞き出したものか部屋番が駆けつけて来たが、あまりかんばしくもない光景だから、私は新聞紙を折つて見せぬやうにし、別に何でもないから、あつちへ行つてくれといつて去らしめた。幸に血はとまつたが、愈よもう牀に就かねばならぬ時機が来たと覚悟して、私は牀に就いた。その夜更に喀血をし、翌日同じ宿に居た及能博士に来て貰つて相談すると、及能博士は大に心配して、パリーの医師ブラン氏を聘してくれた。ブラン氏はすぐ来て、吸角をあてるやうに取り計らつて呉れた。私が吸角をあてゝ貰つて居るとき、大使館の芦田氏が見舞つて下さつて、御金のいるやうなことがあつたら遠慮なく申し出てくれと言はれたが、その時私はモルヒ子と貧血のため、少し意識がぼんやりして居たやうであるけれど、見ず知らぬ芦田氏の、あのうれしい言葉は今もなほ忘れることが出来ない。
 看護婦は、英国の私の知つた婦人を頼むことにしたので十五日(即ち明日)しか来ない。私はその夜を越すに可なりに不安を覚えたので、そのことを尾見博士に話すと、尾見博士は一時頃迄私の牀のそばについて居て、それから宿の番人と交替して下さつた。私がモルヒ子のために、夢ともうつゝともわからぬ境を辿り、ふと眼をあいて、尾見博士の顔が電燈の薄闇い光に照されて居たのを見たときのうれしかつたは、一生涯忘れることが出来ないだらうと思ふ。それでも喀血するときには、尾見博士に一寸室を出て貰つた。然し、後にはもうそんなことは言つて居られなくなり、尾見博士にコップを受けて貰つて血を喀いた。
 尾見博士と同じく島文次郎博士もコップを捧げて下さつた。コップに一ぱいになつて島博士は隣室の洗面所へ洗ひに行つて下さつたが、凝血が落ちて行かないので可なりに時間がかゝつたらしかつた。両博士にさうしたことまでさせたかと思ふと、今でも汗が出るほどつらい感じがする。実にそれに対する感謝の言葉がないのである。

6月

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 及能博士はそれから一ヶ月半といふもの、毎日のやうに見舞つて診察して下さつた。デリール夫人はスヰートピーやその他の珍らしい花を持つて來ては枕頭に挿して行つてくれる。尾見、島両博士も花を持つて来たり、面白い書物を持つて来て私を慰めてくれる。私はまつたく幸福な病牀生活を営むことが出来たのである。名和君は独逸から帰つて色々世話をしてくれるし、グラスゴーの谷口君からは、いざといへばすぐ走つて行くからとの手紙が来るし、まつたく心強く暮すことが出来たのである。

「西洋初版本漁り」(小酒井不木 『紙魚』 大正15年2月号)
フランスの探偵小説家ガボリオの短篇小説集「バチノール街の老人」の英訳の古本をパリーの病床で読んで、それをその侭宿に放つて来たことも残念でならない。何分その時分には探偵小説を書かうなどとは夢にも思はず、たゞ娯楽のために読んでゐたので、荷物になつて厄介だから旅舘に捨てゝ来たのであるが、今になつてみれば、もう一度読んでみたくてならないのである。

7月

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 さうして、私は日一日恢復をして、遂に七月の半ばにアルカションといふ大西洋沿岸の小さい町に転地することが出来るやうになつたのである。転地する前に、好本節博士に伴はれて、久し振りで町へ出た時は、可なりに胸が苦しかつたが、一方からいへば多少心に晴やかさを感ずるであつた。

8月

9月

(国立公文書館所蔵資料による)
東北帝国大学医学部助教授小酒井光次仏国巴里ニ於ケル疾病及死亡原因ノ名称及統計形式一定ニ関スル万国委員会ヘ委員トシテ参列被仰付ノ件 公文書>*内閣・総理府>太政官・内閣関係>第五類 任免裁可書>任免裁可書・大正九年・任免巻三十三 作成部局 内閣 年月日 大正9年09月13日

10月

11月

「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
 母は父の留守中、愛知県第一高等女学校の教師をしており、名古屋の下町の借家に住んで、私は母方の祖父母の手で育てられていた。そこへ父が帰って来たのであるから、子供心に大変なショックを受けたものである。表通りから射し込む陽光の中に、洋服を着た黒いシルエットを父の第一印象として記憶している。なにぶん数え年三歳の時の記憶であるから、別な記憶が父のものとして残っているのかも知れない。
 帰国後父は母の実家で療養生活に入った。父は独りっ子で、その父母は既に亡く、母の実家は愛知県海部郡神守村(現津島市)の日光川に添った田舎にあった。母は退職して看病に当たったのであるが、間もなく私も祖父母と一緒に名古屋を引きあげ、父母と一緒になった。しかし寝たきりで、時々喀血をくり返す父とは、同じ家の中でも半ば隔離されて、専ら祖父母と生活していた。

12月

(公開:2007年2月19日 最終更新:2020年3月19日)