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学者気質(廿四) 科学と文芸

医学博士 小酒井不木

 由来天才は往(ゆく)として可ならざるなしの有様で、科学者であると同時に詩人であり、芸術家であると同時に科学者であつたものも少くない。レオナルド・ダ・ヴインチは画家であると同時に優れたる解剖学者であつた。彼は心臓の房と室とを聯絡(れんらく)せる所謂ヒス氏筋束の存在を説いた最初の人であつた。加之(しかも)彼は又自然哲学に関しても一家の見識を持つて居た。彼は言ふ「理論は将軍で実験は士卒である」と。又言ふ「自然は理智(リーズ)に始まり経験(エキスペリエン)に終ると雖(いへど)も、吾等は経験より始めて理智を発見する様勉(つと)むべきである」と。大生理学者アルブレヒト・ハルラーは植物学者であり又詩人であつて、彼の詩「アルプスの山々」は頼山陽の耶馬渓の詩の如くアルプスの風光を始めて世に紹介したものであつて、詩人シルレルや、コレリツヂにも其の影響が認められる。かの前にも一寸述べたことのあるクロード・ベルナールは若い時に「ローヌの薔薇」といふ喜劇や「ブレターニュのアーサー」といふ悲劇などを書いたが、後(のち)人に勧められて医学を修めることになり、其の頴才(えいさい)は師のマジヤンヂーをして「君は俺よりも偉い」と叫ばしめた程で、遂に生理学者として千古不朽の名を擅(ほしいまま)にした。トーマス・ブラウンは医者としてよりも寧ろ作家として名高く其の著「レリヂオ・メヂチ」は多くの人に読まれて居る。ゲーテは人も知る如く科学者としても恥しからぬ才能を示して居て、其(その)色彩に関する論、又進化論に関する説は有名なものである。かういふ例を挙げ来(きた)れば際限がないから、話を転じて茲(ここ)に少しく所謂文学者なるものゝ科学的知識について述べて見ようと思ふ。
 芸術家が自然なり人生なりをカンバスの上又は書物の上に写すには、必ずや真実(※1)を描き出さねばならぬのであつて、芸術家も科学者も等しく自然の精密な観察者たらねばならぬのは言ふ迄もないが、科学の真と芸術の真とは必ずしも一致しないものである。ミレーが草刈る男を描いたのをある百姓が見てこんな腰付では草は刈れないといつたさうであるが、なる程非科学的な輪廓であるにも拘(かかは)らず観る者には立派に草を刈る男に見えるのである。然らば芸術家はいつも科学の真を犠牲にしてよいかといふにさうではない。マーテルリンクがテモルヂから其の小説「ポンパツールの庭師」を送られて其の中(うち)に書かれたる花物語を読んだ後、急いで著者の許(もと)に走つて「ルイ十五世の時にはダリアといふ花はまだ知られて居なかつたから早速之は訂正を要する」と告げたことは有名な逸話である。それ故文学者も精密な科学的知識を持つて居てほしい。然る上其の表現の際に技巧上已むを得ず必要の場合には科学的真を没却することあつて始めて其の道の達人といふ事が出来ようと思ふ。
 トルストイは「沙翁(さおう)論」を書いて沙翁(さおう)の作に非常に不自然なことが多いのを謗(そし)つて居るが、如何(いか)にもボヘミアロ海があつたり、妖婆などを用ひて活動せしめたりすることは科学的には極めて不自然不真実には違ひはないが、其処に科学上の真と文芸上の真との相違があつて、これのみによつて決して沙翁(さおう)の真価を傷(きずつ)くべき理由とはならないのである。茲(ここ)ではこのことについて深く論ずべき余裕がないからたゞ沙翁(さおう)の医学的知識に就いて少しく記述し、聊か沙翁(さおう)を弁護して置きたいと思ふのである。
 委細はバツクニルの著「沙翁(さおう)の医学的知識」を読めばわかるが、マクベスをして「医術は犬に投げ与へよ」などゝ言はしめて居る所を見ると沙翁(さおう)は如何(いか)にも医学に冷淡であつたかの様に思はれるが決してさうではなく、バツクニルの考証によると、其の時代の医学に精通して居たこと疑ひない。尤も現今の医学的知識を以て見れば無論幼稚ではあるが其の時代に達し得らるべき頂点まで達して居たら、それで申し分はない訳である。沙翁(さおう)崇拝者のある者は「ジユリアス・シーザー」の中(うち)のブルータスの言(げん)を取つて、ハーヴエーの発表以前に血液循環の事を言へるものとなし、或はハーヴエーと交際して居たなどゝ考証するものさへ出来るに至つた。併し沙翁(さおう)は其の頃行はれて居た(※2)レーンの説即ち動脈は精気を含んで居るものとの考へを持つて居るのが至当であつて「ロミオとジユリエツト」のロウレンスの言(げん)などに明かに表現されて居る。この詩聖の精確なる医学的知識を窺ふに足る色々面白い例証は沢山あるが、茲(ここ)に一例を挙げてこの章を結ばうと思ふ。
 それはマンドレーク(羅甸(ラテン)名マンドラゴラ)と称する植物に関することである。この植物は丁度人蔘の様に人間の形をしたもので、之を地から抜き取るときは物凄い叫び声を発し其の声を聞いたものは皆発狂するといふ口碑がある。この植物は一種の物質を含有し薬理学的には麻酔作用を現すものである。そこでバツクニルの考証による沙翁(さおう)は其の劇詩の中に前後六回この植物を引用して居るが、其の内二回は麻酔剤として書いたので其の時は羅甸(ラテン)名のマンドラゴラの文字を用ひ、他は例の口碑を取り入れた場合でその時は英語のマンドレークの文字を用ひて居る、些細な事ではあるがこの大詩人の用意周到な心根が偲ばるゝではあるまいか。(大尾)

(※1)原文圏点。
(※2)原文圏点。

底本:『東京日日新聞』大正10年10月13日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2009年3月2日 最終更新:2009年3月2日)