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学者気質(廿一) 

医学博士 小酒井不木

 金を獲(ゑ)んが為に学問をするとなれば、それはすでに出発の第一歩を誤つたものである。学問は誠に金とは縁遠いものであつて、これは古往今来不易(ふゑき)の原理である。昔は孔子が瓢箪屡(しばしば)空しき顔回(がんくわい)を誉めたが、貧乏が学者の附き物であることは既に前にも述べた通りである。金は誰でもほしい、然し金が欲しかつたならば学問をしなければよい。金を獲(ゑ)る道は別に存在するからである。顕微鏡と株券とは決して同日に談ずべきものではない。「世人結交須万金(せじんまじはりをむすぶにまんきんをもちゆ)、黄金不多交不深(おうごんおほからずんばまじはりふかからず)、縦令然諾暫相許(たとひぜんだくしばらくあひゆるすも)、終是悠々行路心(つひにこれゆうゆうこうろのこころ)」と古人も黄金の悪弊を説いて居るが、人事亦然り、況んや学問に於てをやである。ハーヴエーが血液循環の説を公にするや、世間は異端の説として今迄繁昌した彼の門前が雀羅(じやくら)を張る程に寂れて来た。彼は勿論この結果を見抜いて居たであらう、併し真理の為には其の多大の犠牲をも敢てしたのである。
 研究題目によりては其の研究の結果を売れば随分金になる場合がある。現にヂフテリー血清を創製したベーリングはそれが為百万長者となつた。言ひかへれば血清成金となつた。然しベーリングの名はヂフテリー血清創製者たるが為に尊いので、彼が百万長者たるが為ではない。否(いな)彼が百万長者となり済したことは何となく奥床しさが減じた感がある。それは単に羨望の為に言ふのではない、若しパストールがあの沢山の研究の結果を巧(たくみ)に金に易(か)へたならばパストールは千万長者となつたかもしれない。然し彼はさういふことに一向無頓着であつた。それが為彼の名は永遠に美(うる)はしい。一八六七年に於ける仏蘭西(フランス)の葡萄酒工業は実に五億法(フラン)に達した。而してその莫大な国家の利益はパストールが殺菌法(摂氏五五度乃至五六度に熱すること)を創案して腐敗を防いだが為である。又一八四九年頃から仏蘭西(フランス)の生糸工業が著しく害せられた。それは蚕に一種の病気が流行した為である。それで十年ばかりの間に仏蘭西(フランス)は年々約一億二千万法(フラン)の損害を受けることになつた。そこでパストールは五箇年の辛労によつて、漸く其の病因及び予防法を見つけたが、なほ他の一種の病気があることが明かとなつた。後更に数年を経て、遂に之が研究を完成したが其の間に彼は愛嬢を失ひ又自身も苦しい疾病に悩んだ。彼の眼中国家の利益のみにあつて一身の利益は更に無かつたのである。
 チンダルがデーヴイ及びフアラデーの師弟関係を説いた文章の中に、この二人の最も感心すべき点は二人共其の研究の結果を売り物にしなかつたことであると述べて居る。其の業績に於てデーヴイ及びフアラデーは千古不朽の名を縦(ほしいまま)にして居るが其の名を一層香(かん)ばしくするのは二人が所謂学商でなかつたことである。フアラデーにとりて百万や千万の富を作ることは何の雑作もなかつたであらう。然し乍ら彼の欲した最も大(だい)なる報酬は富ではなくて新発見の喜びであつた。
 このフアラデーを生んだ英国に現今細菌学者のライトの様な学商の出たことは頗る遺憾に堪へぬが、茲(ここ)に今の学者気質と古(いにしへ)の学者気質の径庭が見らるゝではあるまいか。一言(ごん)にしていへば学者気質は一般に堕落し始めたのである。国家が専売特許の法を設けて発明を奨励し研究を保護するのは頗る善いことではあらうが、人々が其の目的を主として研究する様になつては由々しき事である。されば時としては金になりさうな研究に手を染めて、然らざる研究を捨つる様な弊害も出来てくる。さういふ不心得な学者には到底立派なことは出来まいがこんな気風が流行しては学界の前途も頗る心細い。
 中にも人の弱点に乗じて、充分なる研究もしないものを直ちに市場に出す一部の新薬発見者流の如きに至つては許すべからざる罪人である。貴重なる人命犠牲にして以て私腹を肥さんとする、正に車裂(くるまざき)の刑に処しても(※1)(あきた)らぬものであらう。かゝる連中は最早学者たるの資格は勿論ないが、悲しいことに世間は往々それを洞察するの明を欠く。
 同じく衆愚に乗ずるにしても大昔の学者達はたゞ他愛もない子供心からして色々と世間を驚かしたものである。今の学者の或るものは、胸に恐ろしい一物(もつ)あつてのことであるから危険なること此上(このうへ)もない。

(※1)原文ママ。「慊」の誤植?

底本:『東京日日新聞』大正10年10月10日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2009年3月2日 最終更新:2009年3月2日)