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学者気質(二十) 名誉

医学博士 小酒井不木

 豹は死して皮を留(とど)め人は死して名を残すといふが、残した名がどれ位まで保ち続くかを考へるときは頗る心細いものである。コツホが結核菌を発見しても結核菌の名は残るがコツホの名は何時(いつ)の間にか忘れられて了(しま)ふ。天王星の名は知つて居ても之を発見したハーシエルの名を知るものは極めて少い。確かアナトール・フランスであつたと思ふが、「地球が段々冷えて行くと人類は滅亡する。然し地中の蚯蚓は案外永く生き残るかもしれない。するとセキスピーアの劇詩もミケランゼロの彫刻も蚯蚓に笑はれるかもしれない」の言(げん)は実に痛烈にこの間の消息を言ひ破つて居る。かるが故に学者が真理を探究するのは決して「名」の為であつてはならない。国家は学者の名を表彰し之を保存する義務はあらう。併し乍ら名の為に学者が働く様になつては其の真髄を誤つたものと謂はねばならぬ。
 むかしは尊い学説を出した学者が名誉を以て酬いられざるのみか却つて残酷なる虐待を蒙つたことは前にも述べた。印刷術の発見せられなかつた時分には苦心した著述と雖(いへど)もたゞ少数の人の眼に触るるに過ぎない様なこともあつた。メンデルの遺伝研究が漸く世に認められたのは其の死後十数年を経てからであつた。たとひミルトンが、名誉を「完全なる人格に於ても最も免れ難き弱点である」といつたとはいへ、真理の熱愛者は決して名誉を兼愛することは出来るものではない。かるが故に真の人間でなくては真の学者たることは出来ないのである。換言すれば学者となる前に先づ人間とならねばならぬ。
 世間は往々肩書を以て其の学者の価値を云為(うんゐ)する。かういふ世間は須(すべか)らく改造しなければならぬ。従つて不心得な者は肩書を獲(ゑ)んが為に研究したりする。あさましい世の中である。夏目漱石は学位を辞退した。カーライル、スペンサー、グラツドストンも其(その)先駆者である。それ等の人々の価値は肩書の有無によつて決して左右せられない。今の世は一面からいへば学者にとりてあまりに寛大である。従つて似而非(えせ)学者が続出する様な訳になつて来た。
 往年赤痢菌の発見に関してその優先権の争ひが始まつた。調査の結果わが志賀博士が最初の発見者たることに決定したが、かゝる争ひは実に苦々しく思はれるのである。志賀博士がよしや最初の発見者でないと仮定しても志賀氏の赤痢菌に関する研究業績は依然として光つて居るではないか。たとひ又同じやうに最初の発見者たる栄誉を担ふ学者があつても其の学者が若し其の後に於て一向学者らしくなくなつたと仮定したならば先に担つた栄誉は却つて傷(きずつ)けらるゝではあるまいか。消毒法の創始者リスター卿が、自分の以前に既にゼムメルワイス氏が消毒法を行つて居ることを伝へ知つて消毒法の先駆者はゼムメルワイス氏であると宣言した如きは何たる美(うる)はしい話であらう。是が為リスター卿の名声は一段の光彩を添へた。一八五八年ダーウ井ンはウオレースから一論文の発表を依頼された。読んで見ると自分が廿年来考へて居た自然淘汰の学説である。そこでダーウ井ンはウオレースに功を譲らうとさへ考へたが、友人の切なる勧告によつて翌年従来の研究を纏めて、ウオレースの論文と同時に発表することになつた。それが有名な「種原論」である。かういふ美(うる)はしい且つ落着いた態度が今の世の学者に動(やや)もすれば欠けて居りはしないか。
 他人の盛名を快く思はぬのは人情の弱点である。然し乍ら羨望のあまり尊い真理にまでケチを附けたがるに至つては言語道断である。ハーヴエーが血液循環の理を公にした時、リオラースやガツセンヂーといふやうな衒学者は口を極めて反対したものである。然しそれは堂々たる学理上の反対論ではなかつた。かういふ輩は今に至るまで到る処(ところ)にある様である。
 英国のアヂソンが副腎の疾病を始めて記載した所(ところ)之にアヂソン氏病の名を附したのは仏蘭西(フランス)の内科学の泰斗トルーソーであつた、何でもないことの様で却々(なかなか)出来難いことである。コツホが倫敦(ロンドン)の学会で黴菌の純粋培養基に就て始めて報告したとき、演説が終るや否や真つ先きに飛び出して「こりや一大進歩だ」と叫んだのは仏蘭西(フランス)の宝と謂はれて居るパストール其の人であつた。かうした純な心の持主であつてこそ始めて偉大なる研究も出来るのである。

底本:『東京日日新聞』大正10年10月9日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2009年3月2日 最終更新:2009年3月2日)