古来、病苦と貧苦とは得て芸術家や科学者の附物(つきもの)であつて、天才の末路はどうも悲惨な者が多い。伊藤仁齋が、我が子に餅を食べさせんがために年の暮にその着て居た羽織を脱いだことは如何(いか)に其の貧しかつたかを知るに足らう。むかしは蛍雪の学といつて、燈油(ともしあぶら)を買ふ金のなきために、或は蛍の光或は窓の雪の明(あかり)を便りに読書したといふが、タワソーが貧困のあまり、夜、物を書きたくも燈火がない為已むなく猫を連れて来て其の眼の光を蝋燭の代りにしたことは何たる苦しみであつたであらう。池大雅やミレーが如何(いか)に貧乏であつたかは今更言ふ迄もないが、ミレーと同時代の仏蘭西(フランス)の偉大なる画家達の貧困さ加減は、実に驚くべきものがあつた。飢ゑ死(じに)、狂ひ死(じに)が多くは彼等の末路であつたのである。「爾の額の汗によつて爾は爾の生命(せいめい)を得む、長き労苦と懊悩の後(のち)に、やがて死は爾を訪れむ」といふ古句は凡ての天才の墓石に顕然と刻まれて居る。
ドン・キホーテを書いた西班牙(スペイン)の天才セルヴアンテスは、屡(しばしば)食ふ物がなくて困つた。又葡萄牙(ポルトガル)の宝と称せらるゝ大詩人カモエンスも赤貧洗ふが如くにリスボンの一病院で斃(たふ)れたが、臨終の時には一枚の掛蒲団すらなかつたさうである。前後三十年の歳月を、「クインツス、クルチウス」の翻訳に費した、ヴオーゲラスが死ぬ時は其の尊い原稿の外無一物であつた。ルイ十四世は「ラシーヌとボアロー」を毎月宮殿に呼んで彼等の談話を傾聴したがある時、王が文壇に何か変つた珍しいことはないかと尋ねた時、ラシーヌは近頃最も悲しい思ひをしたのはコルネイユが重体で今にも死にさうであるのに、スープ一杯飲む金がないことだと答へた。これを聞いた王は深い沈黙に陥り、後に一封の金をコルネーユに送つた。「ヂオン、カシウス」に関する論文の原稿を僅かに一度の食事に代へたキシランデルは「齢十八にしては光栄を得ん為に学び、齢二十五にしてはパンを得ん為に学ぶ」と嘆息した。和蘭(オランダ)のセ井スピーアと称せらるゝヴオンデルも伊太利(イタリー)の花といはるゝベンチヴオグリオも共に老齢に達していたましい貧困の中(うち)に悶死した。
出師表を読んで泣かぬものは忠臣でなく陳情の表を読んで泣かぬものは孝子でないと頼山陽は言つた。これ等の天才の悲惨なる歴史を読んで泣かぬものは学に志したものとは謂へない。
以上は多く詩人文豪の例であるが科学の方面に於て、なほ一層悲惨なる事は研究それ自身が金を必要とすることである。エールリツヒは科学研究の四要素の一に「金」を挙げた。折角自分があることを考へ出して、これを実験せむとしても金がなくては何も出来ない、宝の山に入(い)つて手を空しくして帰るのと同じことである。六〇六号が発見せらるゝまでに費された金は蓋し莫大なものであつたであらう。科学者に研究費の無いことは科学者自身が貧困であるよりもなほ忍び難い所である。
米国のロツクフエラー医学研究所は世界有数の大研究所であつて所員の物質上の待遇に遺憾なきは勿論、研究費の豊富なる正に至れり尽せりの感がある。同所である日本の学生が一度使用したアルコホルを蒸溜して居たら其の主任が来て、「そんなアルコホルは捨てゝ了(しま)ひ給へ、時間の方が大切ではないか」といつたさうである。かやうに研究費の豊富なる所なればこそ学者は思ふ存分に働き得て、立派な業績がどしゝゝ(※1)出来るのである。かくて学術界にも「金の世の中」と言ふ言葉が流行するに至つたのである。
併し乍らたとひ貧すれば鈍するのたとへがあり又カモエンスが詩を書く約束を果さなかつたのを詰られて、「私が詩を書いた頃は年も若く、食べ物も豊富で、恋人もあり、友人や婦人どもから愛せられた。従つて詩を書く慾も旺盛であつたが、今は貧苦に攻められて少しの心の平和もなく、書く元気は更にない」と答へたとはいへ、金は一面に於て恐るべき誘惑を伴ふものである。艱難汝を玉にすといふ如く貧苦はやはりある意味に於て学者の試金石である、尚このことに就ては更に後(あと)に項を設けて書かうと思ふ(。)(※3)
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文句読点なし。
底本:『東京日日新聞』大正10年9月24日
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2009年2月16日 最終更新:2009年2月16日)