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学者気質(十) 忍耐力

医学博士 小酒井不木

 熟練についで科学研究に必要なものは忍耐力である。偉大なる科学者の生涯は努力、勤勉、忍耐の歴史である。真理はそんなに容易に且つ短日月に発見出来るものではないのである。九仞の功も一簣に欠くの譬(たとへ)、惜い所でやめて悔(くひ)を千載に残すことがある。ダーウインの蚯蚓の研究は前後三十年余を費して居る。余程気が長くなくてはならぬ、急いではならぬ。蛇の如く執念深くなくてはならぬ、馬鹿正直でなくてはならぬ。
 ウエルスの書いた「露に就て」の論文は帰納的実験的研究の最も美(うる)はしい標本として推奨されて居るがこの実験者は十八世紀の終(をはり)から十九世紀の始めにかけて倫敦(ロンドン)に住(すま)つて居た医者である。氏は脳溢血の軽い発作後其(その)体躯が頗る虚弱となつたにも拘らず、長い道中を郊外に通つたり、或は夜を徹したりして数年を費(つひや)し多大の困難に打ち勝ちて而(しか)も専門外に属する真理の探究を完成したのである。
 今日(こんにち)吾等が何でもないやうに考へて居る知識でもそれを始めて獲得した人の苦心と努力とが如何程(いかほど)(だい)なるものであつたかは殆んど想像することが出来ぬ位である。研究題目が大なりとも、また小なりとも其れに払はるべき血と汗とは同じでなくてはならぬ。大なる研究故沢山の忍耐力が要り小なる研究故少い忍耐力でよいといふ訳はない。いつも平等なる心の緊張が要る、真理に優劣の差はないからである。たゞ大なる題目に打(ぶつ)つかるか否かは其処に運不運があるだけである。
 夜になつて天を仰ぐ(。)(※1)其処には無数の星が輝いて居る。アナトール・フランスの言草(いひぐさ)ではないが「其(その)星には色々人間によりて名がつけてあるけれど、彼等の本名ではあるまいから知らぬでもよい」といへばそれまでの事だが、あれが火星であるあれが木星である其の軌道はかうである云々といひ得る迄に至つた径路を辿つて見るがよい。ガリレオの望遠鏡の発明、ケプレルの三法則の発見から続いてニユトンの万有引力の法則の発見に至るまでの歴史を繙けば蓋し思ひ半ばに過ぎるであらう。
 古来人々の最も恐れたるものは戦争と飢饉と疫病とであつた。多数の人が一度に消えて無くなるからである。就中(なかんづく)疫病ことにペストは昔から人々の恐怖の焦点で在つた。ホーマーの詩にもワキヂデスの文にもボツカチオの小説にも、ペストの惨害は物凄く描かれてある。その凄惨の歴史を読んで明治廿九年香港(ホンコン)に流行した際エルザンの手にてペスト菌が発見せられ、ついで鼠、蚤といふ風に今は予防も確(たしか)になつて安心して生活し得るに至つたことを考へるとき吾等は帽(ぼう)を脱(ぬい)で科学に敬礼しなければならぬ。
 科学の人類に与ふる結果を考へるとき、科学者が如何(いか)に真摯なる心を以て精進せねばならぬかゞわかる。僅(わづか)の時間に倉皇(そうこう)として駄作を敢てして之を其の儘人間に応用するある医学者流の如きは実に言語道断である。真理の発表は大事の上にも大事を取らねばならぬ。デカルトは己れの獲得した真理を自分一人で楽しもうと考へて却々(なかなか)発表しなかつたさうであるが漸く人に勧められて彼の哲学を発表した。かういふ床(ゆか)しい心根のあればこそ、急がず、焦躁(あせ)らず悠々として研究に従事することが出来たのである(。)(※2)今の学問に従事する輩は動(やや)もすると辛抱が足らぬやうに思はれる。
 今日方々で矢釜(やかま)しく言はれる遺伝の法則の発見者メンデルが十四年の長い間豌豆(ゑんどう)に就て観察した根気は実に尊いものである。かやうな研究は如何(いか)に手つ取り早く片附けようと思つたとて、豌豆(ゑんどう)の方でそれに応じてくれないのである。法然上人はたしか「極楽往生には賢いのは悪い」といふ意味のことを言つた。之と同じやうに学者も愚痴にかへる量見がなくてはならぬのである。もつと平たくいへば馬鹿になれなければたしかな研究は出来ぬのである。聖賢は愚(おろか)なるが如しとはかやうな点を言つたのかもしれない。
 種痘法の発見者ジエンナーが乳搾(ちちしぼり)の女から「牛痘に罹つたものは痘瘡には罹らない」ことを聞かされて、之を予防的に応用しようと企て彼の師であり親友であるハンローに話すと「兎や角考へるな、行(や)つて見よ、辛抱して粗漏なきよう」と忠告した。其処で始めて自分自身観察に取りかゝつたのが千七百七十八年の事であつて、愈(いよいよ)実地に施したのが千七百九十六年五月十四日であつた。其の間実に十八年の歳月が流れた。

(※1)(※2)原文句読点なし。

底本:『東京日日新聞』大正10年9月16日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2009年2月16日 最終更新:2009年2月16日)