理論と想像とで実験したことを纏め綴ることは、上来(ぜうらい)述べた通り真理の探究に必要な事柄であるが、理論と想像のみの奴隷となつて、単に卓上の説に終つては想像や理論は科学研究の為に却つて障害を齎(もたら)すことは云ふ迄もない。而して世には往々卓上のみの学者が少くないので、この種の学者を称して古来ペーパー・フイロソフアー(紙上哲学者)と唱へて居る。ガリレオはこのペーパー・フイロソフアーを極めて恐れ且(かつ)嫌つたのである。キルヘルの磁気に関する論文の中には「実験を基とせざる学問は空虚で、誤謬で且(かつ)無用である……実験のみが疑問の解決者であり、真理の解明者であつて、即ち或(あるひ)は闇夜(あんや)の松明(たいまつ)となり、或(あるひ)は盤根錯節を解き、或(あるひ)は事物の真の由因(ゆういん)を示す」と唱道し、かのマグヂブルグの半球の実験で有名なオツトー・ギユーリツケも其の著「エキスペリメンタ・マグデグルギカ」の中に上記キルヘルの言を引用した傍(、)(※1)「自分の思想と論断とのみに頼る思索家は、この世界の構造に就て何等の堅実なる結論を得ることが出来ない」と附言して居る。科学者はそれ故飽く迄実験を主とせねばならぬ。実験も出来ることなら自己の実験を主とせねばならぬ。例の生理学者ハーヴエーは「他人の実験でなく自己の実験に依らなければ、決して真の科学的知識は得られるものではない」といひ、又「自己の実験に依らずして物を知るのは丁度地図の上で世界の地理を知り、解剖図譜で人体の構造を知つたと同じである。今の世には種々書物を沢山読んだり、又種々議論をしたりする人は多いが、真の賢人であり又真の哲学者たる人は極めて稀である」と述べてゐる。
「講釈師見て来たやうな嘘をつき」といふ川柳はよく人口に膾炙されて居るが、この講釈師的の学者の多いのは単にハーヴエーの時代ばかりでなく、現今にも甚だ数が多い。頭の人たると同時に手の人たるこそ、吾人(ごじん)の求むる真の科学者ではなからうかと思ふ。
実験には熟練が第一に肝要なること言ふまでもない。かの黴毒(ばいどく)治療薬六〇六号の発明者として有名なエールリツヒは稀代の天才であつたが、彼は学問研究に必要な事項として、熟練、忍耐、幸運、金の四つを挙げて居る、(※2)実際古今を通じて大学者たるの人は何(いづ)れも熟練で巧妙な実験家であつた。如何(いか)にして理論に依つて演繹したる事項を実証するかは正にその手際一つによるからである。
カール・ルドウイツヒは心臓生理学の大家である。氏の門下からは、クローネツケルやフオン・クリース等の錚々たる生理学者が輩出したが、これ等の門下生はいつも実験室内では自分の研究の際にも師と其(その)助手のザルフエンモーゼルとの実験を壁に凭れて眺めて居るばかりであつたといふことである。それ程ルウドウイツヒは熱心でもあり、熟練でもあつた。而(しか)もその実験の結果は多くは門下生の名で発表せしめたのであつた。
芸術家がある事柄を捉へて如何(いか)にそれを自分の芸術として表現するかはやはり熟練に依らなければならぬ。この点に於ては科学と芸術とは極めてよく似通つて居る。セネカは「芸術とは芸術家の心に植ゑられたる所作の理(※3)(リーズン・オヴ・ゼ・ワーク)である」と称へて、科学及芸術は同一の方法に依りて得らるゝことを述べて居る。
茲(ここ)に一言(いちごん)数学に就て述べよう。実験を主とする学問にありては、数学はたゞ実験の結果を数学的に一の組織に纏めるに役立つのみで(、)(※4)ハツクスレーは「数学はたゞ豆を粉にする位のものである。」と言つた。近時生物学の方面にも数学の応用は盛んになつたが一般科学殊に生物学に於ては何よりも実験が肝要となることを忘れてはならぬ。物理学の泰斗フアラデーはたしか代数迄位(までぐらい)より数学の知識は無かつた(。)(※5)
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文圏点。
(※4)(※5)原文句読点なし。
底本:『東京日日新聞』大正10年9月11日
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1921(大正10)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2009年2月9日 最終更新:2009年2月9日)