「何といはうが、地は動くんだ」
片手をバイブルの上にのせ、両膝を地につきながら、二度と再び地が動くとは、口にも筆にも致しませんと、たつた今判官達の前でちかつたガリレオが、悲憤の情に燃えたあまり、立上がりざま歯と歯の間につぶやいた有名な言葉である。
先月羽鳥氏の万有還銀試金術が助手の詐欺であると発表された時「何といはうが、万有は銀に帰るんだ」
といふ言葉が同氏の口から出なかつたのを私は甚だ遺憾に思ふと同時に、「学術上の詐欺」といふことと、「学術上の運不運」といふことをつくゞゝ考へずにはをられなかつた。
「里見八犬伝」の始めの部分に名刀村雨丸の話しがある。「殺気を含みて抜き放せば、刀尖より露したたり、讐をきり、刃にちぬれば、その水ますゝゝほとばしりて、拳に従ひ散落す、たとへば彼の村雨の、こずゑを風の払ふが如し、よりて村雨と名けらる」といふ稀世の宝刀である。八犬士の一人なる犬塚信乃がこの刀を親から譲られて大切に守護してゐると、叔父蟇六といふ悪漢が、何とかしてこの刀を奪ひ、時の管領に献じて出世がしたいものと思ひ、娘の浜路に懸想した左母二郎といふ男と謀つて、ある夜、信乃を漁猟に連れ出し、自ら網を投ずる拍子にわざと急流に落ち、信乃が助けに入る間に左母二郎をして刀をすり替へしむるやう計画した。いよゝゝ左母二郎が船中で信乃の刀を抜いて見ると水気が忽然として立ち上がつたので村雨丸と知らなかつた彼はこれがかの稀世の名刀であらうと思ひ、急に自分がほしくなり、自分の刃を、蟇六の鞘に納め、その際少量の河の水を入れて、難なく村雨丸を横奪した。家に帰つた蟇六は早速その妻と共に刀を抜くとばらゝゝと露がこぼれたので、遂に目的を達し得たものと大いに喜んだ――羽鳥氏の助手が銀を投じたと聞いたとき、私はこんな話を連想したのである。
由来学術と詐欺とは縁の浅からぬものがある。されば学術研究に携はるものも、かくの如き他人の詐欺にかゝり易いのみならず、またその他の色々のものゝ詐欺にもかゝり易い。そのうち最もかゝり易いものが自己の眼の詐欺である。
「賢者の眼はその頭の中にあるが愚者は闇の中を歩く」といふ諺があれど、どうしてなかゝゝ賢者の眼もある場合には少しも宛にならぬことがある。早い話しが、月が地上に近い時と、真上にあるときとでは、どんな賢者の眼にも恐らくその大きさが異なつて見えるであらう。「誰か烏の雌雄を知らむ」といふ言葉も、この間の消息を語るものと見られぬでもない。かつて人間の精虫が発見せられたときいち早くも精虫の頭部にちひさい人間の形を見つけたものがある。これも眼の詐欺にかゝつた立派な例である。眼ばかりでなくその他の感覚器もみな同様である。氷に触れた後通常の温度の水に触るれば温かく感じ、熱気に触れた後ならば冷たく感ずる。「相対性原理」ではないが吾人の感覚は畢竟相対的である。相対的のものを絶対と見るとき、我等はまんまと詐欺にかゝつた訳である。
五官の詐欺についでかゝり易いのは心の詐欺である。ある将棋好きの男が宮城前の「下馬」の札を「桂馬」と間違へてぼんやり立つてゐるとき、巡査にとがめられて、「何処ですか」ときくと、「おーてだ」といはれたのに「さては今の桂馬がきいたのかしら」と呟いたことはよく落語に出る話しであるが、先年日本でワイル氏病の病原体が一種のスピロヘータであることが明かになつたとき、今まで病源不明とせられた二三の伝染病の病源体が何れもスピロヘータであるとして間違つて発表された如きは、心の詐欺にかゝつた一例と見ることが出来やう。ハーシェルはその著「自然哲学」の中に学術上の誤謬を論じて、誤謬の原因として五官の偏見と意見の偏見とを挙げたが、自己の心の詐欺にかかるのみならず、また他人の意見の詐欺にかゝる場合も少くない。ことにそれが優れた学者の意見であると一も二もなくその催眠術にかゝつて了ふのが多いのである。
ある場合には「自然」そのものゝ詐欺にかゝることがある。南アメリカに一村の住民がことゞゝく甲状腺腫に罹つてゐる所がある。ある時英国人の一隊が此村を通過したとき、村民は集まり来つて「あれ見よ、ゴトス(甲状腺腫を意味す)のない片輪達が通る」と口々に評し合つて興じた。欧洲ではむかし聖書の中に、神が人間を創造した際、まづアダムを作つて、後アダムの肋骨の一本を抜き取り、それを以てイブを作つたと書かれてゐるため、女の肋骨は男の肋骨よりも一本多いといふ迷信があつたが文芸復興期の有名な解剖学者コロンブスは男女とも肋骨は十二対であると発表して、当時の迷信を破らんとした。ところがあるときコロンブスは偶然一側に肋骨の十三本ある女の死骸を解剖したため、人々は彼のゐたピサの大学に殺到して、それ見たことかと、この大学者を罵り責めた。幸にしてコロンブスはこの自然の詐欺にかゝらなかつたが、ベーコンの如き学者ですら、動く焔や、燃え上がる火ばかりを観察したゝめに「熱は一つの運動である」と結論したほど、自然の詐欺にはかゝり易いものである。統計的研究の際には人はしばしばこの詐欺にかゝるもので、少い例から取つた統計は存外眉唾ものゝ多いことを覚悟しなければならぬ。
最後に恐ろしいのは人を一杯喰はせうとたくんだ詐欺で、往年の千里眼問題の如きその好個の例であらう。羽鳥氏の還銀試金術では助手が何のために銀を投じたかはこの稿を書くまでにはまだ明かにせられてゐないが、誠に物騒千万な世の中である。予て私は学術的研究に携はるものは、自然の秘密を■(あば)(※1)く探偵であらねばならぬと思つたが、今や人事の探偵までも兼ねなければならぬとわかつて、学問するものゝ却々油断の出来ないことを痛感せざるを得ない。
○
第十六、七世紀頃、欧洲で錬金術が盛んに行はれた際、人間の尿が黄金色を呈してゐるのを見て、その中から黄金を採取しやうと企て、多年の研究の結果、黄金は得られなかつたが、その代り黄燐を発見採取したものがある。これなどはまづ比較的好運のうちに数へてよからうと思ふ。羽鳥氏は始め水田に浮ぶきらゝから思ひ付き、次で准南子の墜形訓中の鴻の字に疑ひをかけ、これは液体の金属であらうと解釈して実験に取りかゝられたのであるが、今や運悪く実験を中止されねばならなくなつた。
フランクリンは雷が電気のためであらうと想像し、自ら凧を上げて立派に証明し、ニウトンは林檎の落ちる所を見て万有引力説を建て、ハーヴエーは静脈内の弁の存在から血液循環の理を発見し、コロンバスは地球が円いのならば西向いて出かけても、インドへ行けるであらうと考へ、遂に新大陸を捜し当てた。これ等の人々は何れも運のいゝ連中と見ることが出来やう。実際古来学術上の発見が些事から出発した例は甚だ多く、ある百姓が「沼の泡ですよ」と事もなけにいつたものを、レーウエンヘーグが顕微鏡にかけたゞけで、驚くべき微生物の世界が発見され、和蘭の眼鏡商の一子が、偶然二枚のレンズを重ねて見ると、遠くの教会の尖塔がこちらに近寄つて来たのに驚いて父親に告げると、父親は、これで子供の玩具を作つて売らうと考へ、このことをガリレオに相談に来たのがもとて、ガリレオは自ら望遠鏡を製して、天文学に一生面を開くことが出来た。ヂツケンスが、その小説の一つの中に、「天才とは些事に注意を払ふ生物だ」と、ある男にいはしめてゐるのは、蓋し至言と謂つてよからう。然し事がなるとならぬとは全く運不運に関係し運悪く失敗に終つた例は、世に伝へられてゐないだけで、その数莫大であらねばならぬ。然し乍ら一方に於いて将来の大天才の多くが、また極めて幸運児であつたことも争はれない事実てある、「一将功成万骨枯」とあるが如く、真に学術の将たるべきものは、畢竟功をなすべき好運を持つてゐるのかもしれない。
英国の有名な外科医ジヨン・ハンターは「外科医が自分の過失を公にする勇気のない間は、決して外科学は進歩しない」と言つた。学術上の過失はある意味に於いて学術の進歩に資すること大なりと言ふべきであらう。ゲーテは「自分のなさなかつた失敗が、他人によつてなされたことはまだ聞かぬ」とさへいつた。実に他人の失敗は自己のなし易き失敗である。それ故学術研究に携はるものは厳粛に他人の失敗を考へねばならぬと同時に失敗者は決して落胆すべきではなからうと思ふ。
(※1)原文一文字不明。
底本:「東京朝日新聞」大正12年1月1日号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(最終更新:2017年9月29日)